音楽

2007年2月10日 (土)

第11幕 星に願いを When You Wish Upon A Star!

「35+3は?」

「32」

 同時に返事をする。しかもハモってる。

姉の真紀が原キーで、妹の理絵が3度上、さすがに一卵生双生児だ。

 最初は「35歳でこの店をはじめて、もうすぐ3周年。すると年齢は……」という私の質問で、次の返事は「私たち、これからは32歳でいきます」という彼女たちの宣言である。なんのてらいもない。

 双子もいよいよ年齢を詐称しなければならないときが来たようだ。ま、いいか。嘘も方便。騙し騙され、冗談と本気の境目のトークを楽しむのが水商売ともいえる。ごまかすといったって、たかが38-32=6。たった6歳……誤差といって……6つもいかんだろ! 誤差にしてはでかいだろ! ちょっとサバ読みすぎだろ! いい加減にしろ!。そう怒りながら彼女たちの顔を見たら、以前はなかった小ジワが見えた。3年という月日はそのくらいの時間だ。決して短くはない。腹が立つより、なんだか「がんばったな」とほめてやりたくなった。

 今夜は池袋東口にある双子の姉妹が経営する「ツインズ」で飲んでいる。私はスナックだと思っているが、彼女たちは“クラブ”であると主張して頑として譲らない。

 そこへ息せき切って入ってきたのが常連の山ちゃんだ。顔を真っ赤にして、

「中池袋公園の上をUFOが飛んでる! 円盤型のヤツ」

「ウッソー」

「直線に飛ぶんではなく、こうこうこうギザギザギザッて飛んで、空中でピタッと停止する。あれはどう見てもUFOだな」

 山ちゃんの身振り手振りを交えての説明を最後まで聞かずに、ホステスの優美子と夏織は店の外へ飛びだしていった。すると山ちゃんは、今までゼェゼェいってた息を正常に戻し、何もなかったように椅子に座った。理絵も何もなかったように冷えたビールを出した。

「勝利の美酒はうまい!」

 そういうと双子にピースサインを出した。

 次に入ってきたのは、佐藤さん。ちょっと興奮気味に双子に早口でまくし立てる。

「宝クジ、当たっちゃったよ! 東京都の宝クジをバラで買ったから、前後賞もなしでたった1千万だけど」

「私たちにいくらくれるの?」

「そりゃ約束通り1割の100万、明日現金でもってくるから大きめのバッグもってこいよ。小切手のほうがいいか。それとも80円切手のほうがいいか」

「100万円ももらうの悪いから、ワイン飲ませてくれればいいわ。白ワイン1本、いいわよね、佐藤さん?」

 佐藤さんは、すごく不満そうな顔をしたけれど、イヤというわけにはいかない。佐藤さんは、下手をうったわけだ。

 つづいて富樫さんが入店。もうすぐ定年だといってたから、60歳前後かな。なんだか元気がないように見える。真紀が作った水割りをほんの少しだけ口に入れる。

「今日ガンの告知受けた。あと半年の命だから、好きなことをしてくれってさ」

 やっぱり。お酒の飲み方といい、顔色の悪さといい、そうなんだと私が納得しかかったとき、理絵が甘えた口調でたしなめた。

「富樫さん、だめですよ。いくら今日がそういう日でも、悪い冗談はなしにしましょうよ。もし、それが本当になったら、私、絶対、いやですから」

 富樫さんは、二まわりは歳下の理絵の文句を、お母さんに叱られた子供のように聞き、下を向き小さくうなづいた。

 そこへ優美子と夏織がキャハハハと笑いながら帰ってきた。店内がパッと明るくなる。若いということはそれだけで財産だ。

「UFO、見えませんでしたよ」

「そのかわり公園の向こうのマンションでヤクザが刺されたらしくて、パトカーや救急車がいっぱい来て、それのやじ馬やってきました」

「公園で花見してた人がみんなやじ馬になって、やじ馬の数がハンパじゃなくて、ごった返してて、背伸びしてみたら救急車に運ばれた男の人、血まみれでした」

「なんか体のでかいヤクザが犯人らしいですよ。まだこのあたりにいるはずだって」

「四月は人を狂わせる」というイギリスの詩を思い出した。桜は週末には満開になるだろうと予想されている。桜を散らす冷たい雨が降らなければいいが……。

 ニコニコしながら店に入ってきたのは遠藤君だ。30代前半のサラリーマンで、この店の客では若い部類に入る。

「昨日、六本木で、松浦あややと」

「会ったんですか?」

 すかさず夏織が聞くと、遠藤君はうれしそうに、

「エッチした!」

 みんな白けた。まず、山ちゃん、佐藤さん、富樫さんは「あやや」を知らない。彼らにとってみれば「あやや」も「オヨヨ」も同じことだ。さらに遠藤君はなかなかの好青年だが、女ににもてるタイプではない。当然ながら女性陣は誰も信じていない。そして致命的なのは遠藤君は基本的に空気が読めない。調子に乗って、遠藤君がしゃべる。

「あややとやった。やったーやったーヤッターマン」

 ここで真紀と理絵の判定が下る。

「エンちゃん、退場!」

 またハモった。今度は原キーが理絵で、3度下が真紀だ。退場の判定が下ると、料金は倍になることになっている。

「ウチは給料日10日なのに」

「ツケでいいわよ」

 真紀と理絵が、ユニゾンで答えた。

 その客の来店は、ドアが開く前にわかった。ドスッドスッという足音が聞こえたからだ。ぬーっと現れた瞬間、全員に戦慄が走る。

「フランケンシュタイン!」

 優美子が思わず口走った。上手いことをいう。

 まず体がでかい。身長は190センチ、体重はゆうに100キロを超えているだろう。赤ら顔で、表現できないほど怖い。眉毛がない。歳は40前後というところか。髪の毛は短く刈り込んでいる。額が広いのは剃り込みを入れているのだろうか。

「若松さん、いらっしゃいませ」

 真紀があいさつをすると、彼は右手をあげて「久しぶり」といった。彼は誰にいうでもなくつぶやいた。

「人殺してきた……」

 優美子と夏織は狭いカウンターのなかで体を寄せ合った。優美子は震えているし、鳥肌が立っている。彼女は健康的な太い腕をしているから鳥肌が目立つ。

「きっとあの人がヤクザを刺したのよ」

「まちがいないわ」

「警察に電話する?」

「したほうがいいかも」

「でも、気づかれたら何するかわかんないよ、あの人」

「そそそそんな、誰かが刺されたらどうしよう。血が、この店で……」

「私は平気だけど」

 昼間看護学校に通っていて、おまけに格闘技ファンの夏織は以前「血を見ると燃えるの、アタシ」といっていたことがある。私も「浣腸と注射の練習台になってください」と頼まれたことがあるがきっぱり断った。

 真紀と理絵は、意外に平気な顔をしている。

 真紀が、若松という客の前にチェイサーとショットグラスをおく。そしてマッカランの24年を注ぎながら、

「また、殺っちゃいましたか。返り血浴びました?」

 と思い切った質問をした。

「返り血だけじゃない。傷負った。かなり傷は深い」

 彼は一気にマッカランを流し込んだ。一挙手一投足を観察している若い2人がまたヒソヒソ話をはじめる。

「フランケン、コート脱がないでしょ。ナイフ隠し持ってるのよ」

「きっとコートの下は血みどろよ」

「見てみた~い」

 夏織の目がキラキラしてきた。私が小声で優美子と夏織に声をかける。

「今日は4月1日」」

「……」

「エイプリルフールだろ」

「あっ、そうか」

「じゃあ、山田さんのUFOも嘘ですか?」

「本気で信じてたんだ。お前たちがだまされたから、山ちゃんはただのビールをうまそうに飲んでたよ」

「ひっど~い。信じられな~い」

「あんな嘘に引っかかるほうが信じられないよ」

「フランケンが人を殺したってのも、嘘ですか?」

「嘘だろ。あまり上等の嘘とはいえないけど」

「血も見られないんだ……」

 明らかに夏織は落胆している。あまり酒が進んでいない富樫さんは、納得がいかないという顔で会話に入ってくる。

「ああいう嘘は退場ものだよね。オレは理絵に叱られたんだぜ。あんな嘘が許されるなら、あんなのが許されるなら、オレのは……」

「何、ひとりで怒ってるんですか?」

 富樫さんが理絵に叱られてるところを見てない優美子がいぶかしがる。 

 しかし今どき、エイプリルフールでこれだけ盛り上がる店も少ない。かつてフランスは3月がお正月だったらしい。16世紀に1月1日を新年にする暦が採用され、それに反発した市民が、4月1日を「嘘の新年」とし、バカ騒ぎするようになったのがエイプリルフールのはじまりだという。

 今夜のツインズは、うまい嘘をついたらビールをサービス、双子に「退場!」といわれると料金倍付け、佐藤さんのように流れでワインをごちそうさせられるような嘘も、本人の出費は別にして、雰囲気を盛り上げたから「いい嘘」といえるかもしれない。

 小学生の頃はたわいのない嘘で同級生をだましては喜んだものだ。「3時間目は理科室に集合って先生がいってた」ってクラスの大半をだまして、先生にこっぴどく怒られ、廊下に正座させられた。仲の良かったヒロシが「かあちゃん、今日死んじゃったんだ」って嘘ついたら、「世の中にはいっていい嘘といけない嘘がある」って先生すごく怒った。ビンタ3発、食らってたなあ。

 私は若松という客に興味津々で、先ほどからじっと観察している。ショットが空くたびに時間をおかず真紀がマッカランを注ぐ。あの体つきの割には繊細な指をしている。指も5本そろっているようだ。

 ケータイの着信音が店内に響いた。ディズニーの曲だ。どうせ優美子か夏織だろって思ったら、なんとフランケンが背広の上着を押さえながら店外へ出ていった。全員が意外な展開に安堵の笑みを漏らした。なんて曲だったかなあ。思い出せない。

「若松さんならではの着信音ね」

 真紀が真顔でいう。フランケンが戻ってきたとき、私は彼を「イジリ」たくなってしまったのだ。

「若松さんっておっしゃいましたっけ」

「ハイ」

「いったい誰を殺してきたのですか?」

 店内の空気が緊張した。みんなの視線が私につき刺さる。

「そこのマンションでヤクザ殺りましたか?」

 全員の視線が若松さんに移る。みんなが聞きたいこと聞いてあげたからね。あとは知らないよ。

「今回は、今年、中学に入学する少女です」

 若松さんはロレツが回らなくなっている。私はすかさず、

「なんでそんな嘘をつくんですか? エイプリルフールだからですか? あまり趣味がいいとはいえないな」

 自分のほうがかなり年配だと思ったので強気に出てみた。キレるか? 若松さんはウイスキーをグイと飲み干し、チェイサーを半分ほど流し込んだ。私はいちおう緊急事態に備えて、逃げる準備をした。

「その前は幼稚園児です。ボクはふだん嘘ばかりついているから、今日は本当のことをいってます。ほんと、殺しちゃいました」

 若松さんの隣に座っている山ちゃんは怖がって椅子から転げ落ちるし、優美子と夏織はひどくおびえている。

「彼女、明日香ってういうんだけど、去年の暮れ、危ない状態でした。強い薬の副作用が出て、治療も苦しくて、『先生、どうせ私、死んじゃうんでしょ。死ぬんだったらこんな苦しい思いしたくない』って泣いたんです」

 ここで真紀が私たちに説明してくれる。

「若松さん、小児科のお医者さんなんですよ」

 理絵が小さな声で私に教えてくれる。

「難病の名医らしいですよ」

「桜が咲いたら、明日香は中学生だろう。桜が咲くまで頑張ろう。桜が咲いたらきっとよくなる。先生が絶対治すから……ボク、いたいけな子供をだましました」

「若松さん、それは嘘とはいいませんよ」

 理絵がフォローするが、若松さんは首を横に振った。

「嘘じゃなくて、それは若松さんの“願い”じゃないですか」

「今週の月曜日です。明日香は私にこういいました。

『先生、桜、見れたよ。桜ってこんなにきれいだったんだね。でも桜ってすぐ散っちゃうから、私、好きじゃない』

 明日香はサクランボ嫌いか? 花が散ってサクランボができる。そして今年で終わりじゃなくて、来年、また咲く。まだ今年は無理だから、来年は花見行こうっていいました。そしたら『あと5回桜を見たら、私、先生のお嫁さんになってあげる。先生、顔怖いし、不細工だから、女、いないでしょ。近ごろの女は男見る目ないし……』って」

 重い沈黙が店を支配する。私は後悔していた。いつものノリで客をイジルなんてことをしなければよかった。

「明日香、今朝、病状が急変して死にました。助けられなかった。ということは、殺したということです。ボクの力なんてこんなものです」

 私は一言も発することができない状況だった。若松さんは、30秒ほど沈黙したあと、

「ボクは人を殺すために医者になったわけじゃない!」

 ふり絞るような叫びだった。

「先生が担当でなかったら、ほかのお医者さんなら、明日香ちゃんは助かったんですか?」

 真紀が聞く。

「ボクは名医じゃなくちゃいけないんだ。生きたい、そう思っている子はみんな、世界中の医者が治せなくても、ボクが治さなくっちゃいけないんだ。名誉も金もいらない。ただ名医になりたいんです」

 若松さんは真紀が出した冷たいおしぼりを顔に当てる。

「すみません。つまんない話で酒まずくしちゃいました」

 若松さんは私も含めた客に頭を下げ、ショットをあおると、真紀に勘定を投げるように渡し赤い顔をさらに赤くし、さっさっと店を出ていった。

 飲み屋で熱い話するんじゃないよ! 一生懸命生きてるヤツ見るとイライラする。酒ってのは楽しく飲むものなんだよ。

 フランケンと入れ違いに入ってきた常連・近藤さんが、真紀に尋ねる。

「おまえ、また男泣かしただろ?」

「人聞きの悪いこと、いわないでよ」

「今出ていった客、泣いてたぜ。よくあんな化け物みたいなの泣かすよな。真紀の気の強さは半端じゃないからな」

「やめてよ。それでなくても婚期遅れてるんだから。私じゃないわよ」

 ここでボソッと佐藤さんがつぶやく。

「遅れてるならまだいい。来ない電車を待っているほど無駄なことはない」

 あっ、真紀と理絵の顔色が変わった。それを無視して近藤さんが続ける。

「じゃあ、理絵だ。金なんかいらねえから、とっととけえれ! とかまたブチ切れたんじゃないか」

「とっととけぇれ! といったことはあっても、金なんかいらねえからといったことは一度もございません。とっととけぇれ! っていうのはチェックが終わってからいうようにしています。泣かしたのはこの人!」

 理絵が私のことを指さしているのは、髪の毛が薄くなった頭皮で感じた。それでも頭を上げることができなかったのは、すごく後ろめたいのと、たまらなく恥ずかしいのと、なんだかわからないけれど感動したのと……。

「何だ、島さんかい、あんなすごいヤツを泣かしたのは。あれー? 島さんも泣いてるじゃん。いい年こいたおっさんが何泣いてるんだか。『お前のかあちゃん、デベソ』『お前のおやじははげ頭』とかいい合ってたんか。ほんと、この店の客はガキなんだから……」

 近藤さんに、涙を看過されて、ひどく動揺した。その動揺に気づいたのか、近藤さんは話題を変えてくれる。

「あっ、忘れてた。こんどオレ、ポマードレコードから歌手デビューが決まった。今日レコーディングしてきた。明日はジャケット写真を撮る。遅れてきた演歌の星、せつせつと池袋の夜を歌うってキャッチフレーズで発売されるからみんなCD買うように。島さんは、当然買ってくれるよな」

 全員で大笑いした。彼はこの店の客で一番音痴だとみんなは知っている。最近でこそ慣れてきたけど、はじめて彼の歌を聞かされたときは、真剣に殺意を覚えた。包丁を持っていたらまちがいなく刺してただろう。そのくらい下手なのだ。この店でも、他の客がいるときは近藤さんには歌わせない。客がいないときは歌っていいのだが、店の人間はみんな彼が歌いはじめる前に耳栓をする。

 嘘もここまで嘘だとわかれば爽やかである。私もつられて笑った。そのどさくさにまぎれて涙を拭った。理絵は、あまりにもばかばかしいので、サービスのビールを抜いた。

 地下鉄や私鉄の終電の時間が近づいて、山ちゃんと遠藤さんと佐藤さんが帰っていった。最後に入ってきたのは玉田さん。今夜は一人客ばかりだ。こんな夜もある。桜もまだ7分咲き、明日からは花見返りの団体客でにぎわうことだろう。玉田さんが、

「すごいもの、見ちゃったよ!」

 真紀も理絵も、私も、富樫さんも、若い子たちも今夜は嘘はうんざりだ。

「UFOは飛んでませんよ」

 夏織がそういうと、玉田さんが、

「そんな現実離れしてないよ、化け物みたいな顔をした大男が空に向かって叫んでいた。そりゃ、地響きがするようなすごい声だった。叫ぶというより吠えるだな。人間というより獣といったほうがいい」

「きっとフランケンだ」

 優美子がいうと、真紀と理絵が目を合わせ、私と富樫さんの顔を見てため息をつく。

「患者さんに気持ちが入りすぎちゃうんだよね。いつもそうなのよ。患者さんが亡くなると落ち込み方が半端じゃない。ふだん飲まない、というより飲めない酒を浴びるように飲んで、助けられなかった悔しさを神様に訴えるように、池袋のどこかで叫んでる」

「亡くなった子供たちは星になるって信じてるのよ、彼。だから夜空に向かって謝ってるのね」

「前回は池袋大橋で、その前はビックリガードだったわ」

「彼の患者さんって小さな子供ばかり、しかも治すのが難しい病気ばかり。でもまだまだ彼に負けてもらっちゃ困るのよ。がんばれ! ってこっちもエールを送りたくなっちゃう」

 無口な富樫さんが口をはさむ。

「そのエールが、マッカランの24年なんだ」

「見ててくれたんだ」

「この店でははじめて見るもんな、あんないい酒」

「そう、慰められないけど、せめていい酒で悪酔いしないでという私たちの気持ち」

「あの堅物には、お前さんたちの気持ち、伝わってないかもよ」

「いいのよ。明日また子供たちと一緒に戦ってくれれば」

「さすが、38歳だよ」

 富樫さんがそういうと、双子はハモリながら「32よ~」と答えた。いつのまにかメロディまでついている。私が「この店の客であることを誇りに思うよ」といおうとしてやめた。そんなことをいおうものなら「じゃあ、ワインをごちそうしてよ」といわれるのがオチだ。

「今日も関西で何人も若者が集団自殺していた。命を無駄にするのなら、誰かにあげられればいいのにな。不平等すぎるよ」

 富樫さんにしては強い口調だ。彼は素早く勘定を済まし、「ヨッコラショ」と腰をあげ、ちょっとふらついた。

「大丈夫ですか?」

 私は思わず手を差し伸べた。隣で見ていて、そんなに酒は飲んでないように見えた。

「ああいう医者がいるから、おれも頑張ってみようと思う。明日からちょっと入院してくるわ。もし病院から出てこれたらまた遊んでくれや」

 そういうと未練を断ち切るようにして店を出ていった。

「エーッ ホントだったんだ」

 そういうと理絵はあわてて店を飛び出し、富樫さんの後を追った。

 私も勘定を済ませ店を出る。いつもは店の前でタクシーを拾うけど、今夜は歩いて帰ろう、そう決めた。どうせ30分も歩けば着く距離だ。

 公園の街灯でライトアップされた桜をしみじみとながめた。来週の今日にはおそらく散っているであろうその花びらは、毅然としていて高貴な香りを漂わせている。

 潔く散ろうが、枯れて恋々と枝にしがみついていようとも、とやかくいう資格は私にはないし、どちらでもいい。

 ただ春の嵐や風に散らされるのではなく、思い切り咲き誇り、花の命を全うしてくれればと柄にもないことを願う。

 無意識のうちに口笛を吹いていた。なんだっけ、この曲は? そうだ若松さんの着メロだ。曲のタイトルを思い出した。

 夜空を見上げる。東京でも、運がよければ10個くらい星が見える夜があるが、老眼がすすんでいるせいか、星は3つしか見つからなかった。

 あたりを見渡す。こんなところ、恥ずかしいから誰にも見られたくない。年甲斐もないことをしようとしている自分を、もう一人の冷静な自分があざ笑う。

「いい年こいたオヤジが何、感傷的になってるんだか」

 苦笑いをしながら、夜空を仰いで、いちばん輝いている星を見つける。

 富樫さんの病気、何とかしてもらえませんか。もう一度だけ、一緒に酒を飲ませてくれませんか。

 若松さん、がんばってます。がんばっただけのごほうびをあげてください。ごほうびは彼の力が及ばないときの奇跡かな。

 そしてその隣の小さな星に語りかける。

 明日香ちゃん、天国で小さくていいから散らない花を咲かせてください。

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2007年1月 9日 (火)

第九幕 雪

 こんな日はまず客は来ない。勘ではなく、これまでの経験上そうなのだ。

 それでも来る客がいるかもしれない。別に待っているわけではないけれど、こんな日に来てくれる客を私は大切にしたいと思う。そう思ってこれまで商売をしてきた。

 昼過ぎから降りはじめた雨は、夕方には雪に変わった。雪に負けまいと頑張っていたアスファルトも、雪の強烈な冷たさに負け、少しずつ白くなりはじめる。

 雪でなくとも今日は月曜日。多くの会社員たちはこのあとの4日間に備え、家路を急ぐ。つまり二重のハンデの中で商売をする。いってみれば本日は負け日である。

 7席あるカウンターに、私と妹と、いつもは3人いる女の子の1人優美子ちゃんが座り、ビールを飲んでいた。

「もう閉めようか?」

 妹がつぶやく。

「そうだね」

 私は答えるが、妹は閉めるつもりはない。一卵生双生児だからわかる。私と同じ気持ちなのだ。

「優美子ちゃんはもう帰っていいよ」

「そうさせてもらいます」

 彼女はそそくさと帰り支度をはじめた。

 開店からもうすぐ4年、私も妹も39歳になった。

「この商売っていろいろな人と出会えるからいいよね」

 っていわれることがある。本当にいろいろな男性と会ってきた。でもはたして多くの人に出会えることが幸せなのだろうか。いろいろな人に会わなくても幸せな人は、山ほどいる。

 優美子ちゃんが帰ってしばらくして、店の扉が開いた。

 見たことがある顔だけど、思い出せない。こういう商売は、一度しか来なかったお客様でも名前を瞬時に思い出せないといけない。でも私も妹もそれが苦手である。

「島さ~ん」

 妹がすぐに声をかける。エッ、島さん? 私の記憶にある島さんとはずいぶん違う。白髪も増えたし、老け込んだ気がするし、すごく疲れた顔をしている。

 島さんは2年ほど前まで一生懸命通ってくれた客だが、あるときパタッと来なくなった。おそらく妹に惚れ込んで通ってくれてたんだろうが、妹がいい返事をしなかったのだろう。私たち双子は、仲はいいのだけれど、立ち入った話はお互いあまりしない。する必要がないといったほうがいいかもしれない。

「いらっしゃい」

 私はいつもの通りだが、妹がどんな対応をするか気になった。

「ずっと、待ってたよ~」

 って完璧な営業トークだ。しかも満面の笑みである。

「わーい、島さんが来てくれた! うれしいな」

 ヘンにテンションが高い。島さんは照れ臭そうに手を挙げ、カウンターに座った。私はおしぼりを渡し、

「雪、降ってます?」

「吹雪いてるよ」

「積もりますね。……島さん、何を飲みますか?」

 と聞いたそのとき、妹がカウンターにボトルを置いた。底に1センチほど残っているジャックダニエルだ。『島』というボトルネックがかかっている。

 私には私の客がいて、妹には妹の客がいる。それぞれのボトルはそれぞれが管理することにしている。

 それにしても意外だった。2年も来なかった客の、それもほとんど入っていないボトルを、クールな妹が置いておくなんて。

 島さんは懐かしそうにボトルを眺めている。

「水割りでいいよね」

「めっきり酒が弱くなってさ。薄いのにしてよ」

 妹はそんな島さんの言葉を無視して、残っているバーボンをすべてグラスに入れ、申し訳程度に水をそそいだ。島さんは苦笑いしている。

「薄い水割りなんか島さんには似合わないよ。特にこの店ではさ、島さんはいつも元気な島さんでいてくれなくっちゃ」

 妹はそういいながら、島さんの目の前にグラスを置いた。

 ボトルが空いてしまった。新しいボトルを入れるだろうか。ちょっと寄っただけなら、この1杯を飲んで帰る。そしてまたしばらくは来ないだろう。昔なら無理やりボトルを入れさせようとした。でも今は違う。この場は妹に任せよう。

 ちらっと妹を見たけれど、ボトルをすすめる気配はない。島さんはグビッと水割りを飲み、

「ヘンな味がする。ヘンな味がするけど、飲みやすい。バーボンにまでやさしくされるようではオレもだめだね」

 自信満々で強気だった島さんの面影はない。仕事がうまくいってないんだろうか。

 そうだ、あれは島さんがいったんだ。当時なかなか売上が上がらなくてイライラしている時期だった。

 島さんはいつもカウンターに座り、冷静に私たちを見ていてくれた。

「仕事ってなんでも大変だと思うけどさ、眉間にシワ寄せてどうするよ。ニューボトルが入ったらさ、カーテンの裏でさ、ヨッシャって叫んでガッツポーズでもしてごらん。真紀と理絵でさ、ハイタッチなんかしてさ」

 バカバカしいけど、やってみたら結構ハマった。島さんはこうもいってくれた。

「あなたたちの商売はサービス業。客を喜ばすという意味ではさ、エンタティナーでしょ。あなたたちが楽しくなけりゃ、客も楽しくないよ。仕事も楽しんでやらなきゃ」

 何だかあの一生懸命の頃が懐かしくなってきた。あの頃によく来てくださったお客さんの顔が1人1人浮かんでくる。亡くなった人、不景気の影響で来なくなった人、社長になった人、転勤していった人、この店より自分にあった店に移っていった人……新しいお客さんが増えると、その分、前のお客さんが減る。狭い店だから、増えてばかりでも困るし、減ってばかりでも困る。ちょうど上手くいっているのかもしれない。

 それにしても彼らはこの店に何を求めに来たのだろうか。私たちは彼らに何かをあげられただろうか。

 島さんが、グラスの酒を飲み干して妹に声をかけた。

「同じボトル入れてよ」

 思い出に浸っていた私は、その瞬間、2年前にタイムスリップした。

「ヨッシャ!」

 思わず叫んでいた。おまけに手のひらを握って……。ガッツポーズまでつけている。

 しまった。まずい! 照れ臭くてペロッと舌を出した。

「ハハハハハハ」

 ここは笑うしかない。妹は手をたたいて笑っている。

 こわごわ島さんを見た。島さんも口を開けて大笑いをしている。よかった。笑ってくれている。

 島さんは笑いながら天を仰ぎ、しばらくして笑い声が消えた。

 妹と目があった。妹が何か合図を送っている。

 島さんが泣いている。人前では絶対泣いたことがないような島さんの目から大粒の涙がこぼれている。

「ヨッシャ」がショックだったのだろうか。もちろんお客さんに失礼なことは知っている。でも島さんが教えてくれたことじゃないの。あの頃は、私も妹も、島さんの言いつけ通り、いつもカーテンの陰でしかやってないんだよ。お客さんには見せたことがないんだよ。うそじゃないよ。

 しばらくして妹がそっと島さんにおしぼりを渡した。島さんはそのおしぼりを奪うように手に取り、何度も顔を拭った。

「この店はあったかいよ」

 島さんはポツリとそういうと、いつのまにか妹が作った濃い水割りを、いっきに飲み干した。ちっともカッコよくない客に「すてき!」っていくらでもいえるけど、こんな場面で声をかけられるほど私も妹もすれていない。

 その日、島さんはかなり酔っぱらって店を出ていった。

 私は島さんの涙の意味を知らない。でも島さんの涙が、私たちへの怒りや悲しみでないことだけは理解できる。

 ただ私はこの店をやっていてよかったと思った。いろいろな人に出会えることは、まんざら捨てたもんじゃないと、つくづく思った。Photo_7

 雪は、ホワイトエンゼルを連れて落ちてくるって聞いたことがある。本当だった。

 これが2月下旬に大雪が降った日のツインズのすべてである。

 客数……1  売上=16000円

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2006年11月 7日 (火)

第八幕 東池袋1丁目の奇跡

 12月25日午後11時30分。もうすぐクリスマスが終わる。あと30分もすれば、商店街や地下街のクリスマス関係のデコレーションはあっというまに撤去され、街全体が正月モードに変わるはずだ。
 ツインズのクリスマス・イベントは毎年、12月22日、24、25日の3日間行なわれる。1日飛ぶのは23日が天皇誕生日で休みだからだ。
 今夜は早い時間に客がどっと押し寄せ、さっきまでほとんどの席が埋まっていたのに、11時頃にはすべての客が帰っていった。
 真紀と理絵は顔を見合わせ、深いため息をつく。一大イベントが終わった安堵感と、1年間の疲労感、そして今までの数年間の思い出が去来する。もちろんあと何人か客が来てくれれば、年末の支払いも楽なのにな、とも思った。 
 何年商売をしてきても、水商売の神様の気まぐれにはいつも翻弄される。今夜にしても、もう少しバラけて客が入ってくれれば、もっと充実したサービスができたものを。
「水商売の神様は、きっと私たちが嫌いなんだ」
 真紀と理絵はいつもそう思う。ある夜は、信じられないくらい客が押し寄せ、何人もの客に頭を下げて帰ってもらったのに、翌日は客が全く来ない。昨日の客の何人かが、今日来てくれればいいのに……。そう思った夜が今年だけでいったい何日あったのだろうか。
 でも水商売の神様は、真紀と理絵が嫌いなわけではなく、真紀や理絵を含めた水商売の経営者を困らせるのが好きないじわるなヤツなんだろう。2人がよく行くショットバーのマスターは、こう分析する。
「ウチの店で飲みたい気分のときって、ほとんどのお客さんが同じなんですよ。だから同じ日の同じ時間帯に客が集中する。じゃあ、それはどんなときなんだ? って聞かれても、皆目わかりません。それがわかれば、バーをたたんで、水商売のコンサルタントはじめますよ。大成功間違いなしで、大儲けできる」
 真紀と理絵は、店の片付けする気分にまったくなれず、カウンターに座る。最近、疲れやすくなった。酒も弱くなった。
 女の子たちもカウンターに座らせ、好きな飲み物を飲むようにすすめた。女の子たちは、無邪気にお正月の予定を語り合っている。子供の頃は、クリスマスとお正月が何であんなにうれしかったのだろう。サンタクロースの存在はいつまで信じていたんだっけ……。
「あの子のところにはサンタクロースが来たかな?」
 真紀が理絵に向かってつぶやく。
「来てるといいな……」
 理絵は少年たちの澄んだ瞳を思い出し、やさしく微笑んだ。

   ● ●   ● ● ●   ●

 あれは10日くらい前、店が休みの土曜日の夜だった。2人は自宅近くのコンビニに買い物に出かけた。入口近くの成人向け雑誌の前には、ガラの悪そうな若者が3人たむろしていた。 
「やりてぇ~」
 スケベ雑誌を手にした1人がそう叫ぶと、左側にいた若者が雑誌をのぞみ込み、自分が見ていた雑誌を見せる。
「こっちのほうが胸でかいしぃ~」
ほしのあきに似てない?」
 男どもはどうして胸がデカい女が好きなのだろうか。巨乳、爆乳などとバストの大きい女性を賛美する。
「どうせ私たちは貧乳、ショボ乳よ」
 とすねる双子であった。先日も、理絵のついた客が替え歌を歌っていた。
「飾りじゃないのよ、乳首は、ハ~ハ~♪」
「じゃあ、何よ! 私の乳首は単に、前と後ろを確認するためについてるわけ?」
 理絵は珍しく、客に執拗に食ってかかった。
「家に帰って、ママのおっぱいでも吸ってなさい、坊や!」
 不良少年たちに聞こえないようににくまれ口をたたく。
 同じく雑誌売場の棚の前には、小学生低学年の男の子たちが4人、1冊のゲーム攻略本を見ていた。おそらく塾帰りなんだろう、持っているバッグはそれぞれアニメキャラやブランドもの、スポーツ系と違うけど、テキストやノートがバッグからはみ出している。
「このゲーム、クリスマスに買ってもらおっと」
 1人の少年がそういうと、4人の中で一番幼い顔をした少年が、
「今年はサンタさん、何持ってきてくれるんだろう。みんなはサンタさんに何頼んだの?」 
 残りの少年たちは「こいつ、何いってるんだろう?」って顔をした。
「アキラ、まだサンタクロースなんか信じてるの」
「サンタクロースなんかいないんだぞ」
「サンタはパパなんだよ」
 口々にアキラ君をやり込め出した。
「サンタさんは絶対いるよ!」
 アキラ君は口をとがらせ、反論した。
「だっておととし、ボクが自転車が欲しいっていったら、パパは『そんな高くて大きなもの、サンタさんだって困るし、もっと小さなものを頼みなさい』って反対したのにクリスマスの朝には枕許に5段ギアの自転車が置いてあったし、去年だって、ボクが天体望遠鏡が欲しいっていったら、『東京じゃどっちみち星なんか見えないし、すぐ飽きちゃうから、サンタさんは持ってきてくれないと思う』ってパパはいい返事しなかった。でもクリスマスの朝には、ボクが欲しかったやつの倍くらい高くて大きな天体望遠鏡が来てたんだ」
 3人が信じられないという顔をしてるので、アキラ君は続ける。
「『パパが反対したのになんでかなあ。アキラはあんまり勉強好きじゃないけど、妹のチカちゃんにも友達にもやさしいから、サンタさんのごほうびなんだな』ってパパ、そういったもん」
 アキラ君がムキになったので、またまた3人が面白そうにからかいはじめた。
 毎年クリスマスイブの夜、アキラ君を寝かしつけたパパは、どこかに隠していたプレゼントを引っ張り出してきて、アキラ君の枕許に置くのだろう。それにしても自転車を見つからないようにどこに隠したのだろう。アキラ君が眠ったあと、預けていた自転車屋に取りに行ったのかもしれない。
 パパがダメだといったからあきらめていたプレゼントが、クリスマスの朝、アキラ君に届く。それを手に取ったアキラ君の喜ぶ顔が目に見えるようだ。なんと手の込んだ演出だろう。 
 真紀と理絵は、アキラ君のパパの涙ぐましい努力とやさしい人柄を思い浮かべて、なんだかほのぼのとした気持ちになってきた。ファザコンの双子は、数年前に亡くなったパパのことを思い出した。
「アキラが寝てるあいだにパパがプレゼント置いてるんだよ」
「そんなことないよ」
「サンタクロース、見たこと、あんのかよ」
「見た……ことはないけど、後ろ姿は見たような」
「うそつき!」
「うちはクリスマスの1週間前になると、これで好きなもの買いなさいってパパがおこづかいくれる」
「サンタなんか信じてるから、アキラは算数の九九もできないんだよ」
「信じられない! ばっかじゃないの」
 3人がアキラ君をうそつき呼ばわりしはじめたので、アキラ君は今にも泣きそうになりながら、
「そんなことないよ、サンタさんはいるよ」
 とくり返す。
「クリスマスツリーを飾った夜に、靴下をぶら下げて、欲しいプレゼントを書いた紙をその中に入れるんだ」
 アキラ君の目から大粒の涙がポロッとこぼれたとき、隣でエロ本を読んでいた若者の一番不良ぽいのが、男の子たちに声をかけた。
「あのさ~、ちょっと話あるんだけどさ~、表に出ない?」
 男の子たちの目がおびえる。
「すぐ終わるからさ」
 残りの若者が取り囲むようにして、男の子たちを店の外に連れ出そうとしている。子供たちの会話の一部始終を聞いていた真紀と理絵は「やばい」と感じた。
 あのツッパリたちは、きっと高校生活になじめず、ドロップアウトしたに違いない。勉強にもついていけなかったのだろう。それに比べ小学生低学年から、塾通いする子供たちが気に入らないのだろう。あんな小さな子供たちが、かつあげでもされたら、一生のキズになる……。
「どうする?」
 小声で相談しいてるあいだに、店の外に7人は出ていった。なじみの店員もただごとではないと感じていたのだろう、2人に「どうしましょう?」という顔をする。
「合図したら、すぐに警察に電話して!」
 って頼むとあとを追うように表に出た。コンビニの前は小さな公園になっている。公園を入ったところに大きな楠があって、その下に3人の不良は男の子たちと視線を合わせるようにしゃがみ込んだ。少年たちの背たけが、不良よりちょっとだけでかくなる。おびえ切っていた少年たちの顔が、少しだけ安心した。リーダー格の不良が、
「驚かないで聞いてほしいんだけどさ~」
 意外に普通のしゃべり方だ。
「サンタクロースはいるんだぜ!」
 子供たちが驚くと期待していたのに何の反応もなくて、リーダーはかわいそうなぐらい落胆している。
「お兄ちゃんたちさ、去年のクリスマスの夜、サンタクロースと会ったんだよ」
 背が一番小さな赤いジャージを着ている若者が続ける。
「テレビで観るのと同じ、赤い服着ててさ、こんな白い髭生やしてて、びっくらこいた。オレに、たばこと酒、くれよ! って頼んだらよ、『未成年はダメ!』ってこっぴどく叱られてさ、かわりに風船ガムもらった」
 今度は、鼻にピアスつけたジャニーズ系の顔をした不良の番だ。
「お兄ちゃんたちさ、サンタさんと連絡する方法、知ってるからさ、欲しいものがあったらいってみな。頼んでやるから」
 アキラ君を除く3人は目を合わせて、「こいつら、ばっかじゃないの」といわんばかりにあきれた顔をすると、一目散に逃げていく。ちょっと遅れてアキラ君も走り出したが、5メートル先で急ブレーキをかけて3人の不良のほうに向き直った。
「ボクさ、ラジコンカーが欲しいんです。サンタさんにいっといてくれる?」
 よく見るとかわいい顔をしている3人の不良は、ニヤッと笑うとアキラ君に指でOKサインを出した。するとアキラ君はVサインを送り、
「そんなに高くないのでいいから」
 そういうと、ピョコンと頭を下げた。そして仲間たちのあとを追うように駆け出していく。リーダーの不良が、
「しっかり勉強しろよ!」
 って大声で叫ぶ。残りの2人が、
「オレらにそんなこという資格あったっけ?」
「ないない」
 とツッコむと、大笑いをした。屈託のない、さわやかな笑顔だった。
 真紀と理絵は、この若者たちとどうしても話したくなった。
「ねえ、キミたち!」
 真紀が呼びかけると、3人の不良はあわてて立ち上がり直立不動の姿勢を取る。双子に比べると20センチ以上背が高い。
 双子が住む大山は、池袋からタクシーで10分くらいで、やくざが多いので有名であるが、やくざに絡まれたことは一度もない。というより大山界隈では一目置かれているらしく、行き交うチンピラも双子の姿を認めると道を空ける。遠巻きにチンピラの兄貴分が弟分に小声で話しているのが聞こえる。
「あれが有名な大山の双子だぜ。覚えとけよ」
 真紀と理絵が醸し出す雰囲気がそうさせるのだろうか。今回も不良たちのほうが怖がっているように見える。
「キミたち、子供が好きなんだね」
 と真紀が語りかける。ああやって大人がしゃがんであげるのは、子供に威圧感を与えないためだ。小さな子供と話すときの基本だけど、それを知っているのは大人でも少ない。この若者たちはおそらく誰に教えられたのでもなく、ごく自然にそうした。
「子供のくせに、子供好きなんだ~」
 理絵がそういうと、赤ジャージがムッとする。理絵は心を許せそうな相手には毒のあるせりふを吐く。
「おねえさんたち、キミたちに頼みごとがあるんだけどな……」
 理絵がいつものアニメ声を出すと、リーダーが恐る恐る小さな声で尋ねる。
「なんでしょうか?」
「サンタさんに、どうしてもお願いして欲しいことがあるのよ」
 ジャニーズ系が、シドロモドロになりながら、
「それは、あのアキラってヤツが、困ってたから、口からでまかせっていうか……うそっていうか……ボ、ボク、サンタさんのケータイも知らないし……」
 わかりきっていることを一生懸命弁解している。
「いいのよ。うそでも何でも……。キミたちに伝言してもらいたい気分なの!」
 強い口調で真紀がいうと、
「ハイ」
 見かけによらず素直だ。まず真紀だ。
「クリスマスプレゼントなんだけど、私はとびっきりいい男が欲しい!」
 理絵が続ける。
「私は、福沢諭吉がいっぱい欲しいわ」
 困ったような顔をしている3人が可愛くて、双子は抱きしめたくなる。抱きしめるわけには行かないから、真紀と理絵はかわるがわる3人の右手を両手で握ると、耳元で「ありがとう」っていい、頬にキスをした。
 3人はドギマギして、夜の公園でもはっきりわかるほど頬を真っ赤に染めた。妙齢というには歳は行き過ぎているかもしれないが、年上の女性には弱い年代である。
「ちゃんとサンタさんに伝えてね。頼んだからね」
 ポカンとした若者たちを尻目に、2人はコンビニに戻っていく。うしろで若者たちが、
「おばさんにキスされちゃった」
 っていいながら頬を押さえている。まんざらでもなさそうである。すかさず双子はふりむき、3人をにらみつける。すると少年たちは小さな声で声をそろえて、
「おねえさんに……です」
 といい直した。双子が「わかればいいのよ」といわんばかりに首を縦に振る。リーダーが勇気をふりしぼって聞く。
「お、お、おねえさん! と、と、と、年いくつですか?」
 真紀がドスの効いたアニメ声で返事をする。
「いい度胸してるね」
 3人は震えながら後ろに一歩下がった。
「ま、告白しちゃうけどさ、私、20歳若かったら、キミたちにゼッタイ惚れてるよ」
 理絵がドスの効いてないアニメ声で続ける。
「私も告白しちゃうけどさ、キミたちさ……、ホント、めっちゃ、カッコいいよ!」
 そういうと、両腕を伸ばして手をピストルの形にして、「バン」と撃つ。ノリのいい若者たちは胸を押さえてくれた。

   ● ●   ● ● ●   ●

「アキラ君っていったっけ?」
「今頃、ラジコンカーを組み立てているかもね」
「あのツッパリ君たちにもメリークリスマス!」
 双子は持っているワイングラスを重ねた。彼らのおかげで今、この時間、ちょっぴりピュアな気持ちにさせてもらっている。ひょっとすると、とても素敵なクリスマスを過ごしているかもしれない。
 真紀が腰を上げる。理絵が腕時計を見る。
 11時50分。
「今夜はそろそろ終わりにしようか」
 女の子たちにそう伝えようと思った瞬間、店のドアが勢いよく開いた。
「メリークリスマス!」
 入ってきたのは常連の中さんと古川さん。手にはどうせ売れ残りを買わされたのだろう、クリスマスケーキを持っている。
 その1分後、今度はモリケンと辻さんが、
「階段の下で会った」
 とかいいながら、「メリークリスマス!」とケーキを2つ差し出す。さっきと同じ包装紙に包まれている。
 そのあとは、須古さん、狩野さん、山ちゃん、タナちゃん、板ちゃん、松岡さん、大野さん……カウンター族ばかりが集まってきた。最後に入ってきたのは去年店をやめた智子ちゃん。10分の間に12人もの客が押し寄せ、真紀も理絵も鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしている。
 カウンターの上に重ねられた6つのクリスマスケーキはうんざりでも、集まってくれたのはうれしい顔ばかりだ。
 ツインズを開店する前、真紀と理絵は、
「気楽に1人で遊びに来て、カウンターで楽しめる店にしたい」
 と話し合っていた。そんな客(彼女たちは彼らをカウンター族と呼ぶ)が1人増えるたびに双子はうれしくて仕方がなかった。
 ボックス席で、女の子をからかいながらカラオケを歌って憂さを晴らしてくれる客、接待に使ってくださる客はそれでとても大切なお客さんだ。客の差別をしてはいけないのだが、それでも双子はカウンター族を一番大切にしてきた。
 1人で来た客同士が仲良くなるのに、時間はかからなかった。開店1年後には、お互い冗談をいい合えるカウンター族が20人ほどできた。
 客の立場からしても、ツインズは貴重な場所になった。学生時代の友達は疎遠になってるし、仕事関係の人と打ち解けるのは難しいが、ツインズで知り合った人とは、何の利害関係もない。世代的にも近い人が多く、会社や役職を抜きにしてつき合えるのだ。
 この店で知り合いになり、親交を深め、ゴルフや競馬、食事に行く間柄になった人もいる。開店当時は2週間に1回は来ていたのに、最近は3ヵ月に1度という人もいるから、久しぶりに再会した客が懐かしそうに話している。
 あっちから「真紀!」、こっちから「理絵!」と声がかかるたびに2人は狭い店の中を行ったり来たりする。足を踏んだり、ぶつかったりするのだが、誰も気にしない。
「真紀~、みんなでシャンパンあけよう」
「それ、いいねいいね」
「乾杯しよう」
 客が盛り上がる。支払いのことを何もいわないのは、ここに来る前にみんなで示し合わせている証拠だ。
「今夜集まるって、誰がいいだしたのよ?」
 理絵が聞き出そうとする。
「誰でもいいじゃん。クリスマスにみんなツインズで真紀と理絵と飲みたかったんだよ」
「ちょっと少なかったけど12人、みんな同じ気持ち」
「何の遠慮もなく、気のおけない仲間たちと酒を飲む。誰も無理して来てないよ」
「あれ~、真紀と理絵、泣きそう?」
 そんなことわざわざいわなれなくても、本当に泣きそうだった、2人とも。でも転んではタダでは起きないのだ、この2人は。
「売上がこんなに上がって、うれしくて泣きそう~」
「シャンパン、10本空けますか?」
 客だって負けてはいない。
「うん、クリスマスなんだから10本空けちゃおう。理絵、奥からシャンパン10本出しなさいよ」
 実は、今夜、シャンパンはもう1本しか残っていない。カウンター族はそんなこともお見通しなのだ。
 シャンパンをグラスに注ぎながら、真紀が泣きそうな声で理絵に話しかける。
「理絵ちゃん、サンタさん、本当に来ちゃったよ!」
 理絵は思い切りはしゃいだ声で返事をする。
「最高のクリスマスプレゼントが届いたね」
「ツッパリ君たちのいった通りだね」
「お願いが叶っちゃった」
「とびっきりのいい男が、それも11人もだよ。智ちゃんも来てくれたし」
「私、後悔している。お金をいっぱいなんて頼まなきゃよかった。みんなが来てくれただけで十分なのに……」
 シャンパンがお情けほど入ったグラスが全員に行き渡ると、宴会部長の狩野さんがマイクを持った。
「宴もたけなわではありますが、ここで一言、スカートとスピーチは短いほうがいいと申しますが」
 ここまでいうと、他の客がヅッコケる。カウンター族のお決まりだ。
「コラ! 双子! 仕事のこともすっかり忘れてリラックスしすぎ。それではみなさん、チャランポランで愛すべきツインズの真紀と理絵のますますのご発展を祈り」
 そのあとを真紀と理絵が続ける。
「今夜、集まってくださった心優しいサンタクロースさんたちに」
「メリークリスマス!」

   ● ●   ● ● ●   ●

 クリスマスは誰にでもやってくる。あとはサンタクロースを信じるかどうかだけだ。信じている人が、信じてない人より偉いわけでも正しいわけでもない。信じた人のほうが、信じてない人より、今夜だけはちょっと人にやさしくなれるかもしれない。違いといえばただそれだけだ。
 有線からジョン・レノンの『ハッピークリスマス』が流れている。

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〈本章のアイデアは敬愛する貧乏ライター高橋克典の『ひと駅だけのレム睡眠』(メタモル出版)収録「サンタが街にやってくる」からいただきました〉。

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2006年8月 7日 (月)

第五幕 ハードボイルドな夜

 ツインズ、ナンバー1(?)ホステスの幸子です。

 昨夜・月曜日は暇だったけど、今夜はボックスが2組、カウンターに3人とまずまずの入り。

 今、カウンターにいます。カウンターの仕事って結構大変です。カウンターのお客さんに対応しながら、ボックスに目配りします。氷や水はあるだろうか。トイレに行ったお客さんがいれば、おしぼりをボックスについている女の子に渡します。ボックスでは見えないお客さんの気持ちもチェック。カウンターに私1人で客が5人いたら、もうパニックです。

 ちょっと気になることがあるんです。先週も今週も、三田さんが来てない。三田さんは毎週火曜日、はかったように午後10時に店に入ってくるお客さん。先週も今週も、その三田さんが来ていません。

 三田さんは、空いている限りカウンター右隅に座ります。そして左斜めを向き、右手で頬杖をつきながら、I.W.ハーパーのロックをチビリチビリ、たまにチェイサーを口にふくみ、またお酒をチビリチビリ。

 ちょっと変わった人です。三田さんはほとんどしゃべりません。むだ口や冗談を聞いたことがない。たとえば私が、

「お仕事、いかがですか」

 と尋ねると、

「まあまあ」

 これだけ。その先、会話が続くことはありません。

「今日の3時頃、地震ありましたよね」

「うん」

 これで終わりです。

 ツインズへ1人でみえるお客さんは、私たちホステスと会話したり、一緒に歌を歌ったりして、雰囲気を楽しむのが好きな人ばかりで、ただお酒だけを飲みに来る方はいません。お酒を飲みたいだけなら、ショットバーに行ったほうが、たくさんお酒がそろっているし、料金的にも安いですし、なんで三田さんはこの店にくるんだろうととても不思議です。私みたいな小娘の相手をしたくない、ということでもなさそうで、真紀さんや理絵さんが相手しても、態度が変わることはありません。

「幸子、火曜日の男、来てないね」

 もう1人の火曜日の常連・杉浦さんです。

「そうなんですよ。三田さんっておっしゃるんですけど……」

 杉浦さんは池袋で喫茶店の経営をしていて、定休日の火曜日に飲みにいらっしゃいます。年は45歳だったかな。三田さんのことは何もわかりません。推定年齢55歳。

「彼、ハードボイルドだよね」

「そうそう、冬はトレンチコートですし、小脇に持ってる本、翻訳物の探偵小説や、北方謙三、大沢在昌ですものね」

「なんか、かっこいいよね」

 よくしゃべり、よく笑い、カラオケ大好きな杉浦さんとは対照的かもしれない。

「寡黙、ダンディズム、ストイック、孤独、男のロマン……って感じ?」

「杉浦さんもハードボイルドに興味あるんですか」

「今どきのオニイちゃんは知らないけど、オレらの世代はみんな、あこがれた。女に媚を売らず、いいわけはしないし、自分の生き様に自信があって」

「たしかに、杉浦さんには無理かも」

「バカにしてる?」

「そんなことないですよ。私は、彼氏にするならハードボイルドより杉浦さんのほうが楽しくていいな」

「軍隊で新入りに鬼のように厳しい教官がいてさ、彼のカラーが白くて固いところから、彼を固いゆで卵、ハードボイルドエッグってみんな呼んだのがはじまりっていわれてる。だから、本来、厳格、非情で、冷淡って意味なんだよ」

「三田さん、すっごく冷たそうだもん。杉浦さんは、あったかそうですよね」

 営業が入っているけど、かなり本気。三田さんみたいな人が彼だったら、あまり話してくれないから何考えてるか分からないし、「オレの生き方は……」って後ろ姿で語られても困ります。

 その後、『カサブランカ』のハンフリー・ボガード、松田優作、大藪春彦の小説の話で盛り上がり、杉浦さんのハードボイルド論を聞いているうちに三田さんのことは忘れました。

 お客さんは、基本的にわがままなものです。気が向いたときにしか来ないし、他に気に入った店があればそちらに行く。

 今夜、すごく盛り上がって、楽しそうに飲んでいってくださり、きっと近いうちにお会いできると思っていたのに、二度と来てくれないお客さんはそれこそ何百人といます。三田さんはツインズに合わなかったんだと思います。だから三田さんがもう来なくても、感傷的になることはありません。そういう仕事なんです、私たちの仕事って。

   ● ●   ● ● ●   ●

 その夜は、客の引けが早く1時に店を出ることができました。昨日まで降り続いていた梅雨の冷たい雨も一休みで、池袋に住んでる私は久しぶりの自転車通勤です。

 池袋の街だって、季節の花は咲きますから、それを眺めながら少しの時間、真夜中のサイクリング。今はもちろんあじさいの花です。あじさいの花の色は、リトマス試験紙と反対で、土が酸性だと青っぽくなり、アルカリ性だと赤色が強くなるって知ってました? 私は薄水色のあじさいがさわやかで好きなのですが、あじさいの花言葉が、「移り気、高慢、冷酷、冷たい」って意外ですよね。ちょっと三田さんのことを連想しました。

 アパートに帰り、自転車置き場に自転車を置く。これから何をしようかな。まずメールをチェックして、録画してた映画でも見るかな。1日でもっともホッとする瞬間です。

 買い物かごに入っているバッグを取ると、買い物かごの下に封筒が入ってます。繁華街に自転車を1時間も止めておくと、買い物かごがゴミ箱状態になることはよくあり、空き缶、ティッシュ、チラシ、噛んだあとのガムなんかが入っているのですが、その封筒はそれらとは明らかに違っていました。

 ずっと降り続いた雨で濡れていましたが、自分は断固ゴミではないと主張していたのです。格調高い和紙でできた封筒で、ちゃんと封緘されていました。

 部屋へ持ち帰り、しばらく封筒を眺めていましたが、好奇心には勝てず、封を切ってしまったのです。中の手紙は封筒ほど濡れておらず、緑のボールペンで書かれた字もちゃん読めました。それは男性から女性に宛てた手紙でした。緑のインクは確かお別れを意味するって歌がありました。

   ● ●   ● ● ●   ●

 貴女をはじめて見たのは、Rというショットバーだった。あなたが入ってきたとき、、きれいな<RUBY CHAR="女","ひと">だなと思ったのを覚えている。

 貴女は入口に近いカウンターで、アルコール度の高いカクテルをジュースのように飲み干した。

「店に出るの、やだなあ、あー、やだ」

 マスターに語りかけると、マスターは黙って水色をした酒をショットグラスに入れて出した。タランチュラ(毒グモ)というテキーラだった。貴女は一緒に出されたレモンをかじると、タランチュラを一気に流し込み、

「ヨシ!」

 と自分に気合いを入れて、勘定を済ませた。ドアのところで、もういちど「よし!」というと覚悟を決めるように出ていった。私は、人気相撲取り・高見盛が制限時間いっぱいで気合いをいれる姿を連想した。

 マスターは、貴女が近くで店をやってるママさんであると教えてくれ、

「水商売もいろいろあって大変なんですよ」

 と付け加えた。

 貴女を2度目に見たのは、深夜のファミリーレストラン。午前3時頃だった。貴女は一心不乱にピザとスープを平らげ、たばこを一服すると、テーブルに頭から倒れるように眠ってしまった。それはまさに「落ちる」という感じだった。私の席から貴女の寝顔が見えたのだが、とても無邪気な顔をしていた。眠りはじめて10分ぐらいたったとき、

「お電話ありがとうございます。ツインズです」

 とはっきりした寝言をいった。きっと店で電話に出ている夢を見ていたのだろう。

   ● ●   ● ● ●   ●

 ここまで読んで、この手紙は真紀さんか理絵さんに宛てたものであることがわかりました。ではいったい差出人は誰なのか? 数人のお客さんの顔が浮かびます。メール全盛のこの時代に、手紙を書くなんて若い人ではないでしょう。いつも家に帰ってきて最初にする習慣、たばこを吸うのを忘れていたことに気づき、マルボロに火をつけます。

 手紙を出した人を知りたければ、手紙の最後を見ればいいのですが、それを我慢してつづきを読むことにしました。

   ● ●   ● ● ●   ●

 貴女に興味を持った私は、次の夜、ツインズへ行った。そこで見た赤いドレス姿の貴女は、太陽のように輝いていた。客の話を楽しそうに聞き、よく笑っている。どんな濃い客にも、酔っぱらってる客にも微笑んでいた。

「ヨシ!」の貴女と、「落ちる」貴女がフラッシュバックする。そして溌剌としている目の前の貴女とのギャップ。

 とても切なかった。とても哀しかった。

 それからは毎週、貴女の店に行くようになった。2回目は、貴女という人間を観察に行くんだと自分に言い聞かせていた。3回目は貴女の顔を見たい気持ちを押さえきれなかった。4回目は貴女の顔を見ていれば幸せだった。そして貴女のことをもっと知りたくなった。

 なんか変なのだ。仕事をしていて、ふと貴女の顔を思い出す。無性に会いたくなる。そして胸が締めつけられるように痛くなる。

 中学3年のとき、女の子とはじめてデートした。うれしくてうれしくて、手をつないだだけで興奮した。あの時の甘酸っぱい気持ちと同じだった。

 ああ、これは恋なんだと気づいて、自虐的に笑った。どうしても自分が恋に落ちたと認めたくなかった。55歳の、酸いも甘いも噛み分けられる分別のある大人が、恋するなんてどう考えても普通じゃない。

 なぜ? 理由を聞かれても答えられない。好きになってしまったんだから仕方がない。困惑した。あせった。自分の気持ちを自分でコントロールできなくて。<RUBY CHAR="狼狽","ろうばい">した。自分の手も足も、私が命じた通り動くのに、心だけは思った通りに動いてくれない。それは10代の頃と同じだった。

 人を好きになるのは理屈じゃない。理屈じゃないから恋なんだ。なんでも理屈をつけたがる大人にいつのまにか私もなっていた。

 勘定を済ませ、帰るときに、貴女はエレベーターまで送ってくれる。何度も貴女の手を握ろうと思いながら、一度も手を握ることができなかった。

 私には3つ年下の妻がいる。若い頃から貧乏で苦労をかけっぱなしで、それでも私を信じてついてきてくれた。仕事仕事で家庭を顧みなかったのに、不平不満を言わずに2人の子供をちゃんと育ててくれた妻がいる。

 それでも、貴女を好きになってしまった。私は何度も自分に言い聞かせた。

「遠くから見てるだけだから、浮気じゃない。妻への裏切りでもない」

 でも神様は私を許してくれなかった。バチが当たった。先日、妻がガンだと宣告されたのだ。しかもあと半年の命だと。

「違うだろ。ガンになるのは私だろ。バチが当たるのは私だろ! あんたのやることはいつもちぐはぐなんだよ」

 元々、神なんて信じてない私は、神を恨んだ。神を罵倒した。

 妻のために今、何をしてやれるのかを真剣に考えた。心底、何かをしてあげたい。でも医者でもない私にできることは何もない。

 お茶断ち……何かを成就させたり、願い事をかなえるために、一番好きな物を我慢する、あれだ。

 私も一番好きなものを絶とうと思う。貴女断ちをします。神様を信じてないヤツが、最後に頼るのが神頼みっていうのも笑える。

 願うなら55歳のしょぼくれたおやじが、貴女を好きになったことを笑わないでほしい。この歳になって人を好きになれることを教えてくれた貴女に心から感謝します。

 ありがとう。そしてさようなら。

 理絵さんへ

       三田    

   ● ●   ● ● ●   ●

 ちっともハードボイルドじゃないじゃん!

 読み終わって、私は手紙にツッコんじゃいました。

 哀しいよ、三田さん。哀しいのは、あなたです。

 切ないよ、三田さん。切ないのは、あなたです。

 手紙を読んでしまったことを後悔する気持ちになり、ひどく落ち込んだのですが、しばらくたって考え直しました。

 三田さん、神様はいますよ。だってそうじゃないですか。2週間前に三田さんが理絵さんに渡そうとしてどこかに落とした手紙は、誰に読まれることもなく、ゴミとして捨てられることもなく、雨に濡れながら私の自転車のカゴに入ってたんですよ。奇跡ですよ、これは!

 三田さんが理絵さん断ちまでして願ったことは、きっと叶う気がします。奥様の病気、必ず治りますよ。私の勘、すっごく当たるんです。このあいだも勘だけで万馬券当てたし。

 この手紙、明日、理絵さんに間違いなく渡します。渡したところで、何も変わらないかもしれません。でも、三田さんの気持ちはちゃんと伝えてあげたいと思ったのです。

 さっきお店で誰かが歌っていたさだまさしの『償い』のメロディが耳元で流れはじめました。

 ♪人間って哀しいね。だってみんなやさしい

  それが傷つけ合って、かばい合って

  何だか貰い泣きの涙が止まらなくて止まらなくて止まらなくて

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2006年5月 8日 (月)

第七幕 パンドラの箱

 全知全能の神ゼウスは、一塊の粘土から最初の人間の女性を作った。ゼウスは彼女に生命を与え、「すべての神の贈り物」という意味でパンドラと名づけたんだ。

 女神アテナはパンドラを美しく着飾り、美の女神アフロディーテは優美さを、アポロンは美しい歌声を……パンドラが地上に降りるあいだに、神々は数々のプレゼントを贈ったから、地上についたとき、パンドラはすっごくいい女……でもちょっとタカビーな女が出来上がっていた。

 しかもパンドラは、最後にヘルメスからとんでもない贈り物をされる。それは嘘と好奇心と虚栄心。こういう女にオレも何度もだまされたことがある。

 さらにゼウスからは絶対に開けてはならないという封印された箱(箱というより甕)をもらうんだな。

 パンドラはやがて1人の地上の神と結婚をすることになる。それはとても幸せな結婚だったんだけど、ただただ毎日が退屈でしようがない。

 ま、幸せってもんはそういうもので、幸せな人間は自分が幸せであることに気づかない。オレも? かもね。結構これで幸せなのかもしれない。

 そんなある日、パンドラは好奇心からゼウスにもらった箱をどうしても開けたくなってしまう。夫に嘘をついてまで箱を開けちゃうんだ。箱を開けた途端、中に入っていたものは、パッと広がりあっというまに地上のあらゆる場所に飛んでいってしまう。

 箱に入っていたのは、何だと思う? 妬み、憎しみ、悲しみ、悪意、欲望、病気、貧困、絶望、暴力……あらゆる不幸の種だった。

「取り返しのつかないことをしてしまった……なんてことをしてしまったんだろう……」

 パンドラは己が犯した罪の大きさにおびえ、ただただ泣き続ける。 

   ● ●   ● ● ●   ●

「最初に来たときはてっきりそのスジの人だと思いましたよ。だいたい、顔が怖いじゃないですか。そのうえすっごく横柄な態度で感じ悪かったです。もう二度と来ないでって。そういう客ほど、また店に来るんですよ。二度目はグテングテンに酔っぱらってきて、1人でボックスに座って、私がついたら露骨に嫌な顔して、『ママ、呼べ!』って、本気でムッとしましたね。それからしばらくの間はいつも心の中で『早く帰れ!』って思ってました」

「幸子、なにも、そんなに悪くいうことないじゃん」

「だって……悪いこと思い出さないと……」

   ● ●   ● ● ●   ●

「ボクがこのあいだ、来たときのこと、覚えてます?」

「エンちゃんがいらっしゃったのは2週間前くらいだったかしら」

 カウンターの中で理絵が水割りを作りながら答えた。エンちゃんと呼ばれたのは年齢が30すぎの遠藤というサラリーマン。

「そこの隅に沢田さんっておじさんが座ってたじゃないですか」

「そういえばエンちゃんと何かまじめな話、してたわね」

「今夜みえるかな?」

「なんで?」

「お礼がいいたかったんですよ」

 真紀と理絵が顔を見合わて、困ったような顔をする。

「あの日、ボク、メッチャ、ヘコんでたんですよ。人生でベスト10に入りそうな落ち込みようで、もうギリギリ状態。いくら飲んでも酔っぱらわないし、むしゃくしゃするし、イライラするし、ムカつくし」

「あの日、エンちゃん、かなり飲んでたわね。新しいボトル入れたのに、ほとんど残ってなかったものね」

「そしたらおじさん……沢田さんがさ、ボソッと、

『オニィチャン、とりあえず、笑っとけ!』

 って声かけてくれたんです。普通だったら、

『うるせえな、ほっとけ!』

 って切れちゃうところだったんだけど、沢田さんの笑顔が口ではいえないくらいやさしくてね。で、いろいろ愚痴聞いてもらったり、話したりしてるうちにさ、何かボクの悩みなんか大したことないじゃんって。そのあとボク、記憶切れちゃうんだけどね、次の日の朝は、全然すっきりしてたんすよ。あれ~? 何悩んでたんだっけ? って感じ。あの日、ボク、沢田さんに失礼なことをしたり、いったりしてませんよね?」

「失礼なことはしてないと思うわ」

「じゃあ、お礼だけはどうしてもいいたい。だいたい何曜日にいらっしゃることが多いんですか?」

 理絵は、何ともいえない微妙な顔をする。

「あんなオヤジにお礼なんかいわなくていい!」

 吐き捨てるように会話に入ってきたのは常連の板さんだった。いつもはニコニコしながらお酒を飲んでいるのに、今夜の板さんは機嫌がよくない。目も座っている。

「どうしてですか?」

 エンちゃんはちょっとムッとした。

「必要がないんだ!」

「なんで必要がないんですか?」

 エンちゃんは少し気色ばむ。

「だって、あれ、沢田のオヤジの趣味だから。道楽といってもいいけどね」

「どういう意味っすか?」

 エンちゃんは、ほぼ切れかかった。板さんは挑発するように説明する。

「その日、オレいなかったから、想像でしゃべるけどさ、あんたに思い切り愚痴をいわせた。そのあいだ、オヤジは何もしゃべらず、相づちだけをうちながらただただ話を聞いていた」

「いっぱい愚痴りました」

「オヤジが刑事だったら、ほとんどの犯人が自白するってくらい、オヤジは人の話を聞き出すのが上手い」

「そういえば初対面の人に話せないようなことも、話していたような気がする……」

「それだけじゃないよ。これも想像だけどさ、あんたがさあ、トイレに入ってるあいだにさ」

 いつも常連と話しているときは丁寧語を使っているのに、エンちゃんには強気なのは、エンちゃんが年下だというばかりではなさそうだ。今夜の板さんは、いつもの彼ではない。ふだんは知らない人に「あんた」などと呼びかけない。

「おそらく若い女の子では落ち込んでいるヤツをフォローできないから、理絵か真紀をカウンターに呼んでさ、『ちょっと元気にしてやってよ』って頼んだ。そのうえ声を張り上げて歌を歌う客には、『わけありの客がいるんで今夜はなるべく静かな歌を歌っていただけませんか』とか頭を下げて回ったんだよ、沢田のオヤジは、きっと」

「ウッソー、そんなに気を使ってもらったんですか?」

 エンちゃんが聞くと、理絵が首を縦に振った。

「だから、気を使ったわけでなく、それがオヤジの趣味なの」

「じゃあ、沢田さんは偽善者なんですか?」

「オヤジがいい人だと思ったわけだ。そりゃ傑作だ。ハハハハハ」

 板さんが、おかしくないのに、笑う。

「偽善者ってのはいい人のふりをすることでしょ。あのオヤジはいい人じゃないし、いい人になろうなんて思ってない。ただただ困っているヤツを見ると元気づけるのが好きなだけ。それも違うな。元気になったヤツの顔を見るのが好きなんだな。それがオヤジの趣味。ただそれだけ」

「だったら、お礼くらい、いったっていいじゃないですか。オレは確かに落ち込んでいたんだし、沢田さんのおかげで元気になったんだし」

 エンちゃんの反論を無視して、板さんが話を続ける。

「ひとしきり話をしたあと、オヤジ、どうせ中島みゆきの『時代』なんか歌ったんじゃないの」

「うまくないけど心に染みるような声でした」

「それに中島みゆきの『ファイト』。闘うキミの歌を、闘わないヤツらが笑うだろって歌を、リズム無視して歌うんだ」

 エンちゃんがその先を続けて口づさむ。

「♪勝つか負けるかそれはわからない。それでもともかく闘いの出場通知を抱きしめてあいつは海になりました」

「ハハハハ、それがオヤジの手なの! 沢田マジックに完全にひっかかってるわ、このオニイちゃん。オヤジも人が悪いよね」

 エンちゃんは、堪忍袋の緒が切れた。席を蹴飛ばすように立ち上がり、板さんの胸ぐらをつかんだ。

「そ、そ、そ、そんな言い方、ないじゃないですか!」

 今にも板さんに殴りかかろうとしたとき、ボックス席から幸子が飛んできて、いきなりエンちゃんに食ってかかった。

「遠藤さん! やめてください!」

「だってこの人、沢田さんの悪口ばかりいって。あんまりじゃないか!」

 エンちゃんはつかんでいた板さんの胸ぐらから、手を離した。ふだんは自分にやさしい幸子の怒り方が尋常ではなかったからだ。

「沢田さんはいつも私の顔を見るたびに説教ですよ。店に来るたび毎回。いいかげんやめてほしいですよ。酒弱いくせに毎日飲み続けて、おまけにたばこもスパスパやって、私が酒とたばこ、減らしてくださいよっていっても、全然聞かないし、今度、寿司屋へ連れていってくれるっていいながら、約束守ってくれなかったし……トロとウニ、飽きるほど食わしてやるって……そういったんですよ!」

 早口でそれだけまくし立てると、幸子はトイレに駆け込んだ。

 エンちゃんは何が何だか分からないという顔をしている。どっかで犬の遠吠えのような、哀しげな声が聞こえた。

「沢田さんて、そんなに悪い人だったんですか。幸ちゃんまでがあんな言い方するなんて。ガッカリだな。ボク、幸ちゃんのこと、好きだったのに……。ただありがとうございました、っていいたいだけなのに」

「だからお礼なんかいう必要はないの」

 板さんは、同じことをくり返す。エンちゃんがまた切れかかったので、理絵が冷たいオシボリを渡した。

 幸子はトイレから出てくると、また沢田さんの悪口をいいはじめる。

「沢田さん、トイレから出てくるとチャック開けっ放しのことが何度もあるんですよ。髪の毛なんかボサボサだし、何日も同じシャツ着てるし、不潔ですよ。それでいて神経質で、寂しがり屋のくせに強がるし……」

 板さんが幸子の肩をやさしくたたく。それでも幸子は続ける。

「沢田さんのいやなところ、文句いいたいこと、いくらでもいえますよ、私……。オヤジ・ギャグばっかで、これがまたツマンないし、笑えないっちゅうの! だいたい自分のお金で飲みに来てるんだから、人に気を使うことなんかないんですよ。私が便秘だっていったら、毒だみ茶かなんか山ほど買ってきて、飲め飲めってうるさいし……。ウザイってヤツですよ」

「もういいから。もうわかったから」

 板さんが強い口調でいう。理絵がビールを出してきて、エンちゃんと板さんについでやる。2人が冷たいビールを飲み干す。エンちゃんはまだ納得してない。まだ幸子が文句をいう。

「私なんか赤の他人なんだから、あんなに心配することないじゃないですか。遠藤さんのことだって、ほっときゃいいんですよ。他人のことばかり気にしてるから……」

「幸子! もうやめろ!」

 今度は、板さんが怒鳴った。理絵がグラスにビールを入れて、イッキに飲み干し、エンちゃんに語りかける。

「正確にはね、お礼をいわなくていい、じゃないの」

 エンちゃんが首をかしげる。

「もう、お礼をいえないのよ」 

 エンちゃんは怪訝な顔をした。 

「亡くなったの……沢田さん、一昨日に死んじゃったんだ」

 空気が凍りつくというのはこんな感じかもしれない。茫然自失のエンちゃんはなんのリアクションもできずに、ただただ目を丸くしている。理絵が続ける。

「さっきまでみんなで沢田さんのこと偲んでたのよ。ツインズ、お通夜みたいでした。あのときはああした、こうしたって思い出話をしてたらね、幸子は泣き出すし、板ちゃんは落ち込むし、私だって……」

 理絵が下を向いて口ごもる。おそらく涙をこらえてるんだろう。板さんが助け船を出す。

「沢田のオヤジがさ、いってたことがあるんだ。『ホントに悲しいときは涙はきっと出ないと思う』って。オヤジのために、オレ、今夜は泣かないって決めたんだ。そしたら急に幸子が沢田さんの悪口いいはじめた。なんで沢田さんのこと悪くいうんだって聞くと、

『だって……悪いこと思い出さないと、いいことばかり思い出すし……そしたら仕事にならないし。沢田さんと話して楽しかったこと、うれしかったこと、沢田さんのおかげで助けられたことは山ほどあるけど、それ思い出したら涙が止まらなくなっちゃうから、沢田さんのイヤなところ、嫌いなところ、不愉快なところを思い出してるんです』っていうわけよ」

 幸子はそれまでこらえていた涙を、もう一度我慢しようとし唾を飲み込むのだが、それでも我慢し切れず嗚咽する。犬の遠吠えみたいに聞こえたのは、幸子がトイレで泣いていたのだ。

「でも沢田さんの悪いところ、嫌なところ……全部、私、嫌いじゃない……」

 幸子はそういうと今度は大声で、幼な子のように泣きじゃくる。

「幸ちゃん、泣いちゃだめ! ずるいよ。自分ばっかり。さっき決めたじゃない」

 理絵が幸子を諭すようにそういうと、さびしそうにエンちゃんに語りかける。

「今夜はもう沢田さんの話、やめようって決めたところだったの」

「そこへボクが入ってきた。そして沢田さんの話題にふれたわけですか?」

 フーッてエンちゃんがため息をついた。

「ゴメンネ、エンちゃんは悪くないのよ」

 理絵がエンちゃんにビールをついでやる。

「エンちゃんがここへ来る前に寄ってきたお店ね」

「うなぎの心臓を生で食わしてくれるところ?」

「その店、沢田さん、大好きだったのよ。私も真紀ちゃんも連れていったもらったことあるし」

「沢田さんも、好きだったんだぁ」

「だから……今夜は沢田さんがエンちゃんを、この店に呼んだような気が、私はするんだけど……」

「遠藤君っていったっけ。オヤジの人生貸し借りちゃら理論って聞いたことある?」

 エンちゃんが「いいえ」と首を横に振る。

「人間はいつも誰かに借りを作りながら生きてる。だからその借りを返してちゃらにしなきゃ死んじゃいけない。オレなんかオヤジにいっぱい借り作ったままなんだよ。もう返せない。でも借りを返すのは、借りをつくった人でなくていいってオヤジはいう。オヤジは今まで作った借りを遠藤君に返してたんだよ。遠藤君がオヤジに借りがあると思ったら、他の人にその分、貸しをつくりな。誰かが落ち込んでたら、遠藤君がそいつにやさしくしてやんなってことだよ。だから沢田のオヤジに礼なんかいわなくていいんだよ。それがオヤジの持論、そして遺言……かな」

「そうだったんですか」

 エンちゃんはすごく悲しそうな顔をした。

「パンドラの箱の話、しなかった?」

「しました」

   ● ●   ● ● ●   ●

 箱の横で座り込み、何日も何日も泣き続けたパンドラは、ある日、もう一度、空っぽになった箱の中をのぞき込む。すると箱の底になんかチリのような小さなものがくっついてる。たくさんの厄災に押しつぶされてペチャンコになってたんだ。

 パンドラは、それを手のひらにそっと乗せてみる。そいつはね、多くの不幸の種に押しつぶされながらも、じっと我慢して生きながらえていたんだ。

 そしてその小さな鼻くそみたいなのがね、パンドラの手のひらから、空に向かって光りながら飛んでいくんだ。飛んでいきながら、それはいくつにも分かれ、キラキラ光りながら、どんどん大きくなっていく。地上のあらゆるところへ、まるで厄災を追いかけるようにね。

 ちょっと見は鼻くそだけど、実はそれが「希望」だったんだよ。

 地上のあらゆるところに飛んでいったさまざまな厄災、すなわち妬み、憎しみ、悲しみ、悪意、欲望、病気、貧困、絶望、暴力は今日もオレたちを取り囲んでいる。だけど、同時に押しつぶされながらもよみがえった「希望」も同じように輝いている。

 そういう話なんよ、パンドラの箱って……。

「……あの話、オヤジ、なんで好きだったのかなあ……」

「希望って、人のやさしさってことですよね」

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第十二幕 キャッチボール

「よくここで飲んでるのか?」

「週に1回くらいかな」

「結構なご身分だよな。勝手に家出ていって、こんなシャレた店で酒飲んでりゃ。一人暮らし満喫ってやつだ」

 中村さんは苦笑いしながら、水割りを半分ほど空け、反論するかわりに質問した。

「なんで大学に行かなかったんだ?」

「あんたがちゃんとお金、家に入れなかったからだよ。そりゃそうだ。毎晩外で酒飲んでりゃ、お金もかかるはずだ」

「かあさんがそういったのか?」

「嫌というほど愚痴、聞かされたよ。貧乏より何より、毎晩その愚痴で、オレまでノイローゼになりそうだった」

 こういう店に一人でお酒を飲みにいらっしゃる男の人は、みんな間違いなくそれぞれの“事情”を抱えている。どんなに奥さんの自慢話をしようとも、幸せそうな家族の写真を見せられても、お金持ちそうに見えても、他人にはわからない悩みを背負っているものだ。

 その悩みという荷物が大きいのか小さいのか、どのくらい重いのか、それは私にはわからないことだけれど、その荷物は明日もあさっても、生きていく限り背負っていかなければならない。だから、ときどき荷物を背中から下ろして、ちょっとだけ休憩したくなる。この店がそういう男の人たちの休息の場になれればいいのだけれど。

 中村さんは理由があって、数年前から家を出てるらしい。一人暮らしだと聞いている。

 さっきから中村さんにつっかかっているのは、中村さんの息子さん、たしか卓也君といった。今どきの若者だから当然ながら髪の毛は茶色いし、ピアスをしている。卓也君が高校を卒業したから、今夜久しぶりに出会い、お祝いの食事をしてこの店に寄ってくださった。

「ま、いいから飲め!」

「いつだってそう。オレ、まだ18歳だぜ。未成年は酒飲んじゃいけないんだ、この国では。フツーの親なら酒飲んでたら怒るっしょ。あんたはいつもそうやって、いい親のふりをする。中学生のときだって、法事の席であんたオレにビール飲ませたよな。あんたの兄貴だって調子こいて飲め飲めってすすめて、あの人も変だよ」

「あんたの兄貴っていい方はないだろ。おじさんだろ。兄貴は死んだんだ。父さんのことはいいけど、死んでいる人を悪くいうのはやめようや。あのとき、お前も調子に乗ってへろへろに酔っぱらって、ハハハハハ、思い出した。学生服脱ぎはじめて、パンツ一丁になって酔いつぶれちゃったんだよ。兄貴と一緒にお前のパンツ下ろしたら、まだ包茎だった。あのあと家出ちゃったから、ずっと気になってたんだけど、包茎直ったか。包茎は直しとけよ。包茎手術に金が必要なら出すぞ」

「包茎」を連呼されて、卓也君は顔を赤くした。生意気だけど、まだ18歳。その話題は無視して、私に話しかける。

「ママさん」

「理絵と申します。お父さんにはいつもお世話になっています」

「理絵さんも、未成年がこの店で酒飲んでちゃ立場的に悪いよね」

「私どもは守秘義務がございますから」

「守秘義務って医者とか弁護士とか偉い人が使うんじゃないの?」

 あまり理屈っぽい話はこういう席にそぐわない。だから矛先をちょっとだけ変えてみる。

「中村さん、聞いてくださいよ。頭来ちゃうんです。このビルの前にいつも止まっているタクシーの運転手がね、『ツインズのママはいつも違う男に送ってもらう』『鼻毛の手入れをしていた』とか『このあいだ、車の中で眠っちゃって、いくら起こしても起きないから、交番へ連れていった』とか、あることないこと言い触らしてるみたいなのよ」

「タクシーで落ちたのはホントじゃないか。」

「落ちたのは事実です。私だって反省してるけど、嫁入り前の娘がガーガーいびきかいて眠っていたなんてカッコ悪いじゃないですか?」

「いびきかいてたんだ」

 語るに落ちた。

「あの、それからすごくいいにくいんだけど、『嫁入り前』という表現はぎりぎりセーフにしても、『娘』はアウトだろ」

 私は中村さんの鋭い指摘を無視して、話を続ける。

「このあいだもお客さんに『お前、すごいいびきらしいね』っていわれちゃったわ。あの運転手、乗せる客乗せる客にいってるのよ、きっと。でもタクシーって仕事にも守秘義務があるんじゃないですか? 流しのタクシーじゃないし、私だって常連客なんだから、黙っているというか、見てみないふりというか、それが当たり前じゃないですか」

「守秘義務っていうかどうかわからないけど、客商売のルールだよね。仁義ともいうのかな。武士の情けかな」

 中村さんが同意してくれる。

「そうですよね、義理と人情が廃れりゃこの世は闇……ですよね。で、話が長くなっちゃったけど、卓也君、飲んでるその液体は、いやいや飲まされてるの? 違うよね。その液体を飲むことで卓也君はだれかに迷惑かけてますか? かけてませんよね。それならいいじゃないですか、飲んじゃってください」

 卓也君があきれた顔をしている。隣から双子の姉の真紀ちゃんがフォローしてくれる。

「マナーを守って明るい日本。マナーはとても大切です。だけど、私はマナーよりマネーをとっても大切にしています」

 それを受けて、私が続ける。 

「他人に迷惑かけなければ法律なんかどうでもいいんですよ。守らなくっちゃいけないのは法律じゃなくて、人としてのルールです。欠かしちゃならないのは浮世の義理です」

「メチャクチャな論理展開……」

 卓也君は納得いかない顔をして、

「でも、オレ未成年だから」

「私、耳、にっちょーび~(日曜日)。最近、更年期障害かしら。ときどき聞こえなくなっちゃうんです」

 中村さんはにやにやしながら、私のヘ理屈を聞いている。

「中村さんは、たしか娘さんもいらっしゃいましたよね」

 私が質問すると、中村さんは待ってましたとばかりに語りはじめた。

「いるよ。今年成人式だった。娘が生まれたときは、そりゃ感動したな。だってそうだろう、1回1~2億のオタマジャクシ、それまでに何百回無駄撃ちをしているか、1兆近くものオタマジャクシが討ち死にしてるんだぜ。天文学的確率で選ばれたのがこの子なんだと考えたら、感動するしかない。五体満足なのを確認して、オレにそっくりなので思わず笑っちゃった。安心したけど、同時に将来、顔で苦労しそうだなって思ったらしみじみしてきて、でも可愛くて可愛くて、なぜか唐突に娘の結婚披露宴のシーンが浮かんできたんだ。生まれたばかりの娘がなぜかウェディングドレス着てて、ああこいつも男に略奪されるんだ、と思うと悲しくて涙が止まらなかった」

「その点、卓也君は男の子だから……」

「別にどうしても男の子が欲しかったわけじゃないけど、こいつが生まれたときはやっぱりうれしかった。最初に頭に浮かんだシーンは、こいつとキャッチボールをしてるところでさ、こいつの5歳の誕生日に、グローブ買った。グローブってさ、普通は茶色なんだけど、わざわざ青いの買った。1万5千円。あのころの1万5千円ってきつかったな。こいつセンス良くってさ、リトルリーグにでも入れて、ひょっとしたら甲子園でも、そのあとプロ野球選手になって何億という契約金もらえるかもってスケベなこと考えてたら、Jリーグがはじまってさ、こいつはサッカーに夢中になっちゃったんだ」

「息子さんとキャッチボールやって、今日は一緒に酒飲めて、お父さんとしては男親冥利につきますね」

 私がそういうと笑顔でうなずき、中村さんは卓也君の肩に手を置いた。

「小学4年になったら、こいつ、吹奏学部に入ってトランペットはじめたんだ。最初のころは学校のトランペットを毎日借りてきて練習してたんだけど、そのうち自分のトランペットが欲しいっていいだして」

「買ってあげたんでしょ。音楽の道に進んで、プロになったらガッポリ稼いでくれるとか思いながら」

「オレだって学習能力あるからさ。それにオレのガキなんだぜ。そんな才能はないだろ。そのころ、オレ、大のヤクルトスワローズ・ファンでさ、もしトランペットがうまくならなくても、神宮球場でこいつの吹くトランペットに合わせて、傘をふりまわしながら『踊り踊るなら』なんて歌えれば、それでいいかななんて納得してさ、トランペット買った。さすが貧乏だったから新品は買えなくて、中古を買った。それでも3万円したかな。でも半年も経たないうちに顧問の先生が気に入らないとかでやめちゃったよな」

 卓也君は肩に置かれたお父さんの手を邪険に払いのけ、憎々しげにいい放った。

「オレにいっぱい愛情かけたといいたいわけだ。自分の趣味押しつけといて、それが愛情だと信じてるんだ。親なんて身勝手だよな」

 なんで中村さんは怒らないのだろう。ガツンっていってやればいいのに……。

 私がこれだけ頭に来ているということは、真紀ちゃんは切れかかっているはずだと、姉の顔を見る。そして腕時計で時間を確かめる。まだ9時半だ。水商売10年のベテランは、このくらいのことで平常心をなくしはしない。ただし、あと2時間経つと責任は負えない。年のせいか、酔っぱらってくると真紀ちゃんの頭の配線がこんがらがるのだ。すると、ただの酔っぱらいに変身し、こんな状況に遭遇するとガンガンからむよ。一卵生双生児だから確信を持っていうよ。知らないよ、卓也君。

「難しい話はわかんないんだけどさ」

 隣に座っている橋本さんが話に割り込んできた。

「卓也君、オレね、酒グセ悪いのよ。この店で勘定払うまでは結構しっかりしてるんだけどさ、そのあと記憶が途切れ途切れになっちゃう」

 中村さんと橋本さんはこの店の常連で顔見知りでも、卓也君にとっては赤の他人、思い切り、「ウザイ」

 って顔をした。

「オレ、いつもタチの悪い酔っぱらいなわけよ。その日は店の前でさ、3人連れのサラリーマンのネクタイにからんでたわけさ。

『なんだ? ジバンシー? チンパンジーの親戚か? こっちはチャンネル? ヘルメス? 性病か? 日本人なら西陣織だろ!』

 そしたらこの人が通りかかってさ。この人ってのはあんたの父ちゃん、わかる? この人突然その3人に土下座してさ、

『ウチの若いものが大変失礼なことをした。申しわけない申しわけない』

 って米ツキバッタみたいに謝ってた。この薄くなった頭、地面にすりつけるのを見てたら、いっぺんに酔いが覚めたなあ」

 橋本さんはかなり酔っていて、言葉がはっきりしないが、何となく理解できる。

「その次は、オレ、そこの公園でおやじ狩りにあってました。5人くらいの若者にボコボコにされてました。そこに飛んで来たのがこのおっさん。このおっさんってのはキミの父ちゃん」

 卓也君は橋本さんと目も合わせない。思い切り嫌な顔をする。

「このおっさん、いきなり、いきなりよ、一番強そうなヤツに飛び蹴りよ。隣のヤツにラリアート。倒れた若者にフライングバスター。しばらく孤軍奮闘も多勢に無勢でやられちゃいました。中村さんの前歯折れました。私のせいです」

 卓也君はお父さんの口もとを見る。たしかに前歯が一本ない。

「キミ、聞いてる? キミの父ちゃんとはこの店で会っただけ。いってみりゃ、オレとキミの父ちゃんは赤の他人。他人だけどだ~い好き!」

 そういうと橋本さんは中村さんの頬にブチュとキスをした。そしてカウンターに突っ伏すようにつぶれる。私は中村さんに頬をふくためのおしぼりを渡した。

「あの夜、橋本さんが店を出ていってすぐ『また暴れても困る。心配だから見てくる』って中村さん追っかけていって、しばらくして二人で帰ってきたら血まみれでしたね」

 中村さんは、体裁が悪いのだろう。下を向いている。

「ボクは子育てのことでカミさんと意見が合わなくて、中村さんに朝まで話聞いてもらったことあります」 

 後ろのボックスから話に入ってきたのは佐藤さん。卓也君があきれ返ったような顔をする。

「まだ小さな親切大きなお世話焼いてるんだ。理絵さん、この人ね、昔からそうなんです。先生でもないのに、近所の子供の面倒見るわけ」

「いいじゃない」

 私が中村さんに助け船を出すと、卓也君はムッとして反論した。

「よくないっすよ。同じマンションの同じ階にヤクザが住んでてさ、そこの子が姉貴と同じ学年の男の子で、毎週週末になるとその子誘って野球ですよ。おふくろが『ヘンな家の子と付き合わせないで』っていうのに可愛がってさ、親がヤクザでも子どもは関係ないとかいって」

「お前も楽しかったろ? あいつ、素直ないいヤツだったじゃん」

「でも中学生になったら、あんたの悪口いってたんだぞ。知ってるか?」

「ああ、タバコ吸ってるとこ、注意したからな。でも反抗期ってあんなものだろ?」

「なんて注意したか、覚えてるか。どうしてもタバコ吸いたいなら吸ってもいい。だけど大人の見てないところで吸え! 吸ってるとこ見たら、注意しないわけにはいかない。わけわかんないでしょ」

「よーく、わかる」

 ワオ~ッ! 真紀ちゃんが会話に入ってきた。時計を見ると頭がこんがらがるにはまだ早い。目も座っていない。

「私は10年以上この商売してきて、それこそ何千人って男見てきたけどね、卓也君のお父さん、超A級だよ。ホント、いい男。私、中村さんに口説かれたら落ちてもいいよ。でも口説かないんだよ、こんないい女を。だからダメなんだよな、中村さんは」

 そういう方向にもっていく? ちょっと違うんだけどな。

「さっきから聞いてりゃ、卓也君、キミのいってることのほうが全然わからないわ。それにしても、キミ、ちょっといい男だよね。年上の女性、嫌い?」

 そういうと真紀ちゃんは卓也君の右手を両手で強く握った。目が少女マンガの主人公になっている。何考えてるんだか、双子でもわかりましぇ~ん。真紀ちゃん、38歳の女が18歳の男の子誘惑したら犯罪だよ。卓也君は迷惑そうな顔をしながらもまんざらではなさそうである。

「卓也君は、お父さんが家を出ていって寂しかったのよね。よくテレビ番組、たとえば『金八先生』に出てくるグレてる子どもの父親ってさ、頑固で世間体ばかり気にして、自分の価値観おしつけてってパターンじゃない? でも中村さんはそういうお父さんじゃない。卓也君にとっていいお父さんだったんでしょ。そりゃ、寂しいわよね。キミ、小学6年までお父さんのひざに乗ってたらしいじゃない。今夜はオネーサンのひざに乗ってみる?」

 今夜の真紀ちゃんは酔っていないのに混線してる。卓也君は真紀ちゃんの手を無理やり離すと、中村さんに食ってかかった。

「そんなことまでしゃべってるのかよ!」

 奥のカウンターに座っていた田中さんが声をかけてきた。

「卓也、お前のことはみんな知ってるぞ」

 卓也君は、

「なんであんたがオレのことを呼び捨てにするんだよ」

 という顔をする。

「子どもたちをディズニーランドや遊園地へ連れていって帰る時間になると、娘はいつも『もっと遊ぶ~。もっとここにいたい~』って泣いてぐずる。こうなるといくらなだめても泣きやまないんだ娘は。ほとほと参っていると息子が『お父さん、今日は楽しかったね。また来ようね』ってさわやかな顔をしていってくれる。中村さんはオレにそういった。『卓也ははいいヤツだぞ』ってな」

 そうだよね。中村さんはこの店で、女の子を口説くわけでもなく、カラオケを歌うわけでもない。飲みながらいつも卓也君や娘さんのことを考えていたような気がする。ずっと心配していたんだ。酔ってグチるわけでもなくお子さんのことを話すことはめったにないのだけれど、頭の片隅にずっと娘さんや卓也君がいたんだ。

 今度は田中さんのとなりに座っている山田さんだ。

「卓也! ボクもいう」

 卓也君は山田さんを見て「また呼び捨てかい」と今度は声に出した。

「中村さん、あの話、しちゃいますね。誰にもしゃべるなっていわれてたけど……。ボク、大学時代バスケやってたから頼まれたんだ。卓也が高校でバスケやってる。シューズ買うから付き合えって。専門店へいって、これが履きやすいとか、NBAの誰々が使ってるヤツだからって説明してあげた。中村さんはアディダスとかナイキとかアシックスとか卓也の好きなメーカーわからないからって一番高いバッシューを選んだ。でそのあと、中村さん、固まっちゃうんだ。目がうつろになってさ。どうしたんですか? ってボクが聞いて返事もしないで、しばらく黙っていて、ポロッと『知らないんだ。卓也の足のサイズがわからないんだ』って……ショックだったんだな」

 中村さんが家を出たのはそういう時期だったんだ。心も体も、子どもから大人に大きく変貌していく一番大切なときに、中村さんは卓也君とちゃんと対峙していない。卓也君だってお父さんに頼ったり相談したいこともあったんだよね。  

「何だよッ、この店は! あんたもあんただよ、オレを丸め込むためにクサイ芝居させてさ。あんたの知り合いばかりじゃねぇかよ。何が卓也、卓也だよ。あんたらに名前呼び捨てにされるほど親しくねえよ。いいかげんやめてほしいな、こういう猿芝居」

 みんな、しばらく沈黙した。誰も卓也君に反論できなかったわけではない。誰もが反論したいのに、中村さんの立場を考えて黙っている。

「でも日光行ったとき見た猿軍団、おもしろかったわよ」

 真紀ちゃん、混線してるって。

「違うのよ。卓也君」

 今夜のお客さんたちは言い訳の下手な人ばかりだ。というより言い訳を潔しとしない、そんな人たちばかりが集まった。真紀ちゃんは混線してるから、しょうがないから私が弁明することにした。

「不思議だけどこういう店って、同じタイプの人が集まる日が多いのよ。やたら女を口説く客ばかりだとか、酒グセが悪い客ばかりだとか、カラオケ好きばかりとか……。だからさっきから今夜はどういう人が集まったのかって考えてたのよ。なんだか熱い人ばかり……悪い意味じゃないのよ。それがさっきわかったのよ。

 先週、中村さんがきたときにポロッと『来週の火曜日、息子と会うことになった。どんな顔して会えばいいのかな』と漏らしたの。『自信ないな』って。それを私がこの人たちにしゃべっちゃったのね。今夜、中村さんが卓也君とこの店に来るなんて、私だって知らなかったんだから。この人たちはね、橋本さんも佐藤さんも田中さんも山田さんも、中村さんが卓也君との再会がギクシャクして、この店に落ち込んでやってくると思って、心配してなぐさめようと思って集まってきてるのよ。このメンバーが一緒に集まることはあんまりないのに」

 真紀ちゃんが何かいいたそうだ。話があさってに行っちゃっても困るからあわてて言葉を続けた。

「中村さんが呼んだわけではないの。この店で知り合った人ばかりなのよ。お酒飲んでるからね、普段はまじめな話はしないし、くだらない冗談ばかりをいいあって、カラオケ歌ってその日のうさばらししてね、それぞれが好きな時間に別々に帰っていく。飲み屋ってそういう場所でしょ」

 私も少し混線して脱線している。何がいいたいのか自分でもわからなくなっている。

「私、今、気づいたの。ツインズが、私と真紀ちゃんがお客さん同士をつなげているんだと思ってたのは間違いだったって。今夜のお客さんをつなげているのは卓也君のお父さんなんだって。私たちが知らないあいだに、お客さん同士が、『できちゃって』た。だからなんだか熱かったのよ」

 いいたいことはちゃんと伝わったのだろうか。不安になって卓也君を見る。山田さんが一人でカラオケをセットして歌いはじめた。

  夕暮れの坂道を  大きな背中と歩く

  グローブを脱いだ左手 皮革のにおいがする

  どんなに加減しても あなたの球は速くて

  逃げ腰になるボクを茶化して永遠に微笑んだ

 「元気で暮らしているか?」と書かれた手紙受け取るたびに

  独りでこらえた涙たち 止まらなくなるよ

  ごめんねこの唇は嘘で誰かを傷つけるけど

  いつもの優しい瞳で僕を叱ってください

 「元気で暮らしているか?」と書かれた手紙越えてゆくため

  今度は「元気だよ」と強く返事を書くから

(『キャッチボール』平井賢)

 山田さん、ちょっとやりすぎ。私はこういうあざとい演出は好きじゃない。さっきからとんがってる卓也君にも逆効果だと思う。田中さんがカラオケの本で曲を選んでいる。お願いだから『おやじの海』なんか選曲しないでね。

「いいねいいね。ジーンとするね。中村さんと卓也君にぴったりね」

 真紀ちゃんが大げさにほめる。別に混線しているわけではない。こういう気まずい雰囲気になると私はそれが通りすぎるまでじっと待つけれど、真紀ちゃんはその雰囲気をかき消すように自分がピエロになる。双子の私にしかわからないと思うけど、真紀ちゃんあれでけっこう頭と気を使ってるんだ。

「おやじ、オレそろそろ帰る」

 卓也君が中村さんのことを「おやじ」というのをはじめて聞いた。卓也君の表情が変わっている。とげとげしさがなくなって、少年のような可愛い(といったら失礼かな)すがすがしい顔だ。

「真紀さん、理絵さん、それから日光猿軍団の皆さん、おやじをよろしくお願いします」

 違うって。猿軍団じゃないって。私の説明、全然伝わってないじゃない。

 卓也君は中村さんの耳元でボソボソっと小さな声で何かをいうと、手を挙げてあっというまに店を出ていった。

「若いっていいね。『若いという字は苦しい字に似てるわ』なんちゃって」

 真紀ちゃんが誰にいうでもなくつぶやく。スピーカーから『おやじの海』のイントロが流れる。私はため息をつく。田中さん、やっちゃったんだ。すかさず真紀ちゃんが、

「田中さん、空気、読める~」

 空気、読めてないよ、田中さんも真紀ちゃんも。ここはほめるところじゃないよ。ほらほら田中さん、張り切っちゃったよ。

 田中さんが「♪海はヨ~」とがなりはじめると、橋本さんがガバッと起きた。しばらくボーっとした後、隣の席に卓也君がいないことに気づく。

「卓也は?」

 さっき帰ったことを伝える。

「じゃあ、中村さんは?」

「愛しい中村さんはトイレですよ」

 私がそういうと、なんだか安心した顔をした。いつもならもう一度ここで落ちて、閉店まで

寝てしまうのだけど、なぜか今夜は復活した。

「オレも歌うぞ。理絵、『親父の一番長い日』入れて」

「酔ってるんだから、今日はやめておきなさいよ」

 この歌はとてもいい歌だけど、カツ舌が悪い人は歌えない。そのうえ橋本さんはべろんべ

ろんに酔っている。前回橋本さんは、この歌にチャレンジして、舌をかんで血を流していた。

途中で歌うのをやめて「おっかしいな。カラオケの調子が悪いな」とかいって機械のせいに

していた。今夜も同じだと思うけど……。

「ゼッタイ、歌う! オレはこの歌を歌いたいんだ」

 橋本さんは、中村さんのためにどうしても歌いたいらしい。お客さんの希望は満たしてあげないといけないから、逆らわずに曲を入れる。

 でもね、中村さんはみなさんにもう十二分に感謝しているんだよ。そして中村さんの背負っていた荷物は、今夜、確実に軽くなったと思う。

 卓也君が店を出ていってすぐに、中村さんの目が見る見る赤くなるのを、私は見逃していない。そしてあわててトイレに立った意味も。

 聞きづらかったけど、卓也君は帰る前に中村さんにこういったのだ。

「おやじ、グローブとトランペット、おれの宝物だから」

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2006年4月25日 (火)

TWINS劇場開演

Twins_2 
池袋東口に実在するスナック『TWINS ツインズを舞台に、

酔っぱらいのオッサン達と、美人双子ママが織りなす

笑い 怒り のヒューマンスクランブル。

池袋東口に思い切り美人の双子姉妹が経営する店がある。

最強の一卵性双生児が店を出した。

弱点は もう若くないことと…胸がAカップなこと…

さらに最大の弱点は……

姉は酔っぱらうと訳がわかんなくなり……

妹はやる気をなくす……

DA・KA・RA毎晩、大騒ぎさ♪

数々の名曲(カラオケ)に乗せ、熱いオッサン達と

暑苦しい姉妹が繰り広げる

奇想天外 抱腹絶倒の物語♪

オミズ小説の最高傑作か??

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