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2007年6月

2007年6月 6日 (水)

第13幕 悲惨な戦い

私はかつてあのような 悲惨な光景を見たことがない
それは10年以上前の 国技館の話です

まったく引力とは恐ろしいもので
地上に浮いているものは 下へおっこちてしまうのだから
アレヨアレヨと思うまに若秩父のマワシは 落ちた

さすが天下のNHK すぐにテレビカメラを消せと命じたが
折も悪くアルバイトを使っていたために アップで放映してしまったのだ

ラジオのアナウンサーもまたアナウンサーで
テレビを見てない人にはわからないものを
テレビのスイッチをひねってくださいなどといったものだから
見なくてもいい人まで見てしまったのだ

さすが天下の国技館 すぐに照明を落とせと命じたが
折も悪くパートタイムを使っていたため
スポットライトを当ててしまったのだ


『悲惨な戦い』 詞曲歌/なぎらけんいち



「たまには1人で来て、カウンターで飲むのもいいでしょ。ねっ、ねっ」

 カウンター越しに真紀が声をかけてくる。「楽しくねえよ」なんて答えようものなら、オレのボトルから酒をいっぱい飲むに決まっているから、「まあな」とか返事を濁す。なんたって残りはボトルの底から3センチ。真紀が本気を出したら、ものの3分で空いてしまう量だ。

 オレはなんでこの店にいるんだろう。いつもは会社の同僚や得意先の人としか一緒に来たことがない店なのに。

 すっげぇ、酔っぱらってるよ。目は回るし、体のなかが熱い。あっ、一軒目の店だ。給料日前で金がないという部下の行きつけの店に行ったんだ。東口のP-パルコのところを入った小汚ねえ店に入って、最初にビール、次にホッピー。串カツ頼んだら、びっくりするくらい大きなワラジみたいなのが出てきて、噛んでも噛んでもなくならなかったから、無理して飲み込んだ。

 おやじが青森出身だからといって青森の地酒飲まされて、そのあと甲種の焼酎をさんざん飲んだ。オレの行きつけに連れていけばよかったんだ。そうだ、オレも金がないんだ。

 一緒に飲んでた部下は、どこへ行ったんだ。何時? えっ、もう12時じゃん。あいつ、家が千葉の田舎のほう、なんてったっけ。音痴じゃなくて、えーと、そう調子ぱずれ。そうそう銚子のはずれだから、終電なくなるってさっさと帰ったんだな。

 銚子と調子、おもしろくありませんか? って右隣の客に話しかけてみる。さっきから1人でマイク離さずに歌っているから、オレのジョーク、まったく聞いてない。でも歌いながら次に歌う曲を選ぶのってどうよ。

 じゃ、左の客はっていうと、おっ、女性が寝てるじゃん、って理絵じゃねえか。店のママがカウンターで寝てていいのか。しっかりもののくせに、寝顔だけはあどけないね。

「もう飲めません」

 寝言いってるよ。今夜も客の酒、一杯飲んだんだね。こういうときに、「相手しろよ」なんて、起こさない。オレの酒、飲まれなくてよかった、ラッキーと考える。ポジティブ・シンキングってやつだな。

「ドンペリ、持ってこいよ」

「ガンガンいっちゃおう」

「オレたち、金使うときは使うよ。江戸っ子だぜ。宵越しの金は持たねえよ」

 ボックスのほうから、景気のいい話が聞こえる。儲かってるところは、儲かってるんだね。いいねいいね。真紀の瞳が、キラリンと輝いた。そして右手を右耳に当て、左手を左耳に、そのあとパチンと手をたたいた。ブロックサインだ。そのサインを見たホステスの寿子と美子が間髪入れずに、

「私、ワイン、飲んでいいですか?」

「私も。できれば赤ワインがいい」

 双子直伝のオネダリをはじめている。寿子と美子は双子ではないが、4つ違いの姉妹だから、チームワークはバッチリ。

「いいよ、何杯でも、何でも飲みなさい」

 気前いいね、ボックスのお客さん。でも甘いな、お客さん。その発言が命取りになるかもよ。オレもおごってもらっていい?

 カウンターのなかは狭いから、真紀が横走りで、ドンペリを持ってボックスに走る。気が変わらないうちにと思っているのだろう。

 オレ、誰にも相手にされてない。しょうがない、理絵でも起こすか。

「ワイン、飲んでもいい?」

 ドキッ。起きたのかと思ったら、理絵の寝言だった。寝た子を起こすような真似をしてはいけない。藪をつついて蛇を出すともいうな。魔がさすところだった。

 でも、本当に今夜は酔ってるな。眠くなってきた。

「イッキイッキイッキ」

 ボックス客が、ドンペリを女の子に一気飲みさせている。ドンペリ、そんな飲み方をしてはいかんでしょ。三つ矢サイダーならいいけど。

「こんなところで寝ていると、風邪引きますよ」

 肩を揺すられてオレは顔を上げる。松島菜々子そっくりの女が横に座っている。胸元が大きく開いた白いドレス、胸の谷間がマブシイ。

 いい女だ。オレは、きっとフジテレビのマークのオリジナルみたいな目をしている。やりたい光線を出している。いかんいかん。なんたって松島菜々子だ。ライバルは反町隆史だ。負けるもんか。

「どっか別のお店にいって飲み直しましょう」

 
 松島菜々子は私の手を引いて胸に押し当てる。おお、この感触。お久しぶりね。

 そのドレス、背中が大きく開いているから、ノーブラってことだよね。

「私たち、ノーブラなの」

 真紀と理絵がよくそういっているけど、菜々子ちゃんはブラジャーがまったく必要のないキミたちとは次元が違うの。菜々子ちゃんがノーブラってことは、……あっ、ポタッ。鼻血だ。女の裸想像して鼻血出すなんて、オレは高校生か。

「お若いのね。このあとが、とてもた・の・し・み」

 菜々子がトントントントン、首筋をたたいてくれる。

 エ――ッ!? 菜々子がオレの股間に手を持ってくる。菜々子のドレスは前にひざ上20センチ、スリットが入っている。オレはゆっくりと自分の手を菜々子の太モモに置き、少しずつその手を上にずらす。アッ! パンストじゃない。ということはガーターベルト?

「お嫌いですか?」

 菜々子が熱っぽい目でオレを見ながら聞く。お好きです。大好物です。いただきま~す。オレの手が菜々子のアソコに到達しようとしたその瞬間、男の大きなどなり声が聞こえる。

「6万円!?」

 触ってないのに6万円? 鼻血出しただけで6万円?

 オレはあせった。菜々子は美人局(つつもたせ)だったのか。今夜、現金ないけどカードでもいい? って何、弱気になってるんだ、オレは。

 オレね、実は今年厄年でね、年が明けて、すぐインフルエンザにかかった。そのあとサイフ落として、3月に車上狙いにあって、いいことまるでなし。だから悪いことが起こったら、今年は逆らわない。流れるままに「どうにでもして」って感じ。

 
 でも、これは夢だ。夢に違いない。夢ならいいのに。

 しばらくぼーっとして店内を見まわすと、右隣のおっさんは相変わらず歌っているし、理絵はまだ眠っている。松島菜々子はいない。

 目の前には菜々子よりでっかい胸の女がいる。寿子と美子だ。いつのまにやらボックスからカウンターに来ている。ただ目線は、2人ともボックスを見つめている。

 夢だった。いつの間にか眠ってしまったようだ。ボックスをチラッとみると、あの景気のいい客たちもいる。だが、さっきまでの雰囲気とは違ってなんだか殺気立っている。

「高すぎ!」

 眼鏡をかけたカマキリみたいな顔をしたおっさんが、料金の書かれた紙を見ながらムッとしている。

「この店、ぼったくりじゃないの」

 背の小さな、太った連れが文句をいう。
「明細、見せなよ」

 グレイの背広を着た頭髪が薄くなったおっさんが真紀にいう。真紀はキレそうになったが、ぐっと我慢。

「かしこまりました」

 と返事をして、いそいでカウンターを横に走り、明細を持って横に走りながらボックスに戻る。

「真紀、カニみたいですね」

 右のおっさんに話しかける。笑ってくれるかなと期待したけど、オレを無視して、古い流行歌を歌い続ける。「真紀、大丈夫かに」くらいの冗談、いえませんか、あなたは。

「なんで、こんな値段になるわけ?」

「こんなちっちゃな店で、サービスも悪くて、こりゃ、高いわ」

「納得いかない。もっと安くしろよ」

 3人が口々に文句を並べる。真紀にスイッチが入った。

「ふざけないでください。セット料金が3人。ドンペリが1本。シーバスが1本。私にビール、寿子と美子に赤ワインを1杯ずつ、どこがどう高いっていうのよ」

 一番奥のカウンターにいるよく見る角刈りにした常連、名前忘れちゃったけど、その人が大きな声で、3人客に向かっていった。

「しめて6万7000円!」

 カマキリが明細を見ながら、ギョッとした顔をする。

「ピッタリ賞でしょ。明細聞いただけで客のオレでも値段がわかる。この店、ちっちゃいとか、サービス悪いとか、真紀と理絵の胸が小さいとか、それは当たってるけど、料金は明朗会計。正確は明朗快活」

「胸が小さい」と言う言葉に無意識のうちに反応して、真紀が胸に手をやり、寄せて上げている。するとどうだ、隣の理絵も、寝ながらブラジャーを上げている。さすが一卵生双生児だ。

 角刈りおじさんが続ける。

「だいたいね、水商売のお酒の値段はね、小売価格の三倍が業界の常識。だからショットバーでも3倍以上の値段を付けている。ドンペリの白はすると4万円になっちゃうでしょ。キャバクラだと5万円か6万円とるよ。ホストクラブなら10万円。でもこの店は3万円しかとってない」

「客のフリしてるけど、グルなんだな。この店の従業員なのか、おっさんは。ボッタクリバーだったんだ、やっぱり」

 小太りの客が角刈りおじさんにからみはじめる。角刈りおじさんもいきり立つ。

「オメーラ、トーシロだな。こういう店の遊び方も知らないんだ。居酒屋で飲んでろ。池袋で飲むのは10年はええよ。ボッタクリバー、教えてほしいならいくらでも教えてやる。オレなんか今まで何件、ボッタクラれたか。30万とられた店もあるんだぞ」

 角刈りのおっさんが、思い出して泣きそうになる。隣の客が助け船を出す。

「あなたたち、歌いすぎ。空気、読まなさすぎ。10曲以上、歌ってるけど、カラオケ代は一銭もとっていないでしょ。カラオケ代、取る店、いっぱいある。あなたたちとこっちのTさんのせいで、私、今夜3曲しか歌ってません。だいたいあなたたち、下手なんです。下手なんだから、カラオケボックスに行けばいいじゃないでしょうか」

 思い出した。IT関係の社長、この店でウイーン中年合唱団団長とか称して常連束ねているNさんだ。Tさんというのはオレを無視して歌い続けた人ね。

 でもなんでこの場面で歌が下手だなんていうかな。火に油そそいでどうするのよ。カマキリが意地になった。

「こんな店で1人2万円も払えるか。もっと安くしないと金払わねえ」

「いいかげんにしなさいよ、あんたたち! ここで4年半、商売してるけどね、あんたたちみたいな客、はじめて。最低。いっとくけど、明細なんか一度も出したことないんだから。明細なんか出さなくても、店と客の信頼関係はできてるんだから」

「なに、ババアが偉そうなこといってるんだか」

 憎々しげに挑発するカマキリに、真紀はぶちキレて、ビンタをかました。カマキリのメガネが吹っ飛んだ。

 こらこら、いかんだろ。手を上げたら負けだっちゅうのに。

「殴ったな。ボッタクリバーの上に、暴力バーなんだ。警察、呼べ。警察に電話しろ!」

 するとオレを後ろから抱えて立たせて、後ろから押すヤツがいる。意志とは関係なしに立たされて、オレは3、4歩、前に進むとそこは3人組の前だ。

 なんで? なんでオレが、けんかの真っ只中に押し出されたわけ。いったい、だれが? 後ろを振り向くと、Tさんはリモコンで曲検索してるし、Nさんはケータイでメール打ってるし、角刈りおじさんは美子としゃべっている。

 おっさんたち、キッタネエーよ。

 わかったよ。わかりました。

「なんだよ。お前。やるのか。オレたちは店と話してるんで、関係ないんだよ、すっこんでろよ。やる気か。店が暴力的なら、客もヤクザみたいなのばかりなんだ」

 ハゲが立ち上がってまくし立てる。アッタマ、来た。たしかにオレは人相が悪い。でもな、お前らみたいに、わけのわかんないイチャモンをつけたことはないんだよ。

 オレはズボンのポケットに手をつっこんであるだけの札をつかむと、3人組のテーブルにたたきつけた。

「これ、くれてやるから、さっさと勘定済ませて出ていけ!」

 そう、叫んだ。どうだ、びっくりしたか? そのくらいははした金だ。男の遊び方ってのは、気前よくないとだめなんだぞ。

 小太りがそのお金を手に取り、しげしげと眺めたあと、おもむろに数えはじめた。

「すっごい。気前いい。はした金じゃない。1枚、2枚、3枚、4枚、5枚、5枚もある。だけど。野口英世4枚となぜか岩倉具視が1枚。諭吉も一葉もいない。これじゃ、焼け石に水なんだけど」

 カッコわるー。ひょっとしてオレ、はずした? 立場、ない? あっ、今、思い出した。部下と飲んで、金がなくなったから、ツケで飲める店ってここしかないから、ツインズへ来たんだ。

 で、あの4千500円は帰りのタクシー代だ。サーっと血の気が引く。酔いが覚めてくる。すると後ろからTさんが歌いながら背広を引っ張る。Tさんの目が「よくがんばった」といっている。オレは後退りでカウンター席に戻った。ショボン。

「もう、いいわ。もう勘定なんかいいから、とっとと帰ってください。もう二度と顔出さないでください。このビルに近づくのもやめてよ! ほかの店にも回覧、回しとくから」

 真紀がこうタンカを切る。

「払わなくていいのか。じゃ、撤収しよう」

 カマキリが席を立とうとする。するとオレの隣でスヤスヤと寝息を立てて眠っていた理絵がガバッと顔を上げ、すくっと立ち上がった。3人客に近づいてカマキリの正面に座る。寝ぼけているわけではなさそうだ。

「真紀ちゃん、だめです! このお三方も、ドンペリ持ってこいとか、お金は使うときは使うよとかおっしゃって、歌も何曲も歌われて……寿子ちゃん、リモコンの履歴調べてくれる?」

 それにしても今までの理絵、狸寝入りだったのか。真紀もしっかりものだが、その10倍、理絵が会計ババアだというのがよくわかった。寿子は手際よく、リモコンの履歴を調べる。

「14曲、歌われてます」

「楽しまれたんですよね。江戸っ子だとかおっしゃってませんでした。それでお金払わないとなると、気分、悪いと思うわ。ですよね、お客さん」

 言葉はていねいだが、思い切り、けんかを売っている。

「払わないなんていってない。高いから負けろ! っていってるだけ」

 カマキリも、もう引くに引けない。

「それにオレ、ビンタ、張られたんだぜ。傷害罪で訴えてやる」

 真紀は冷静さを取り戻しているから、平然といい放つ。

「4人、お客様がいるから、聞いてみてください。私が殴ったかどうか」

 4人? オレとTさんとNさん、3人じゃないのか? と奥のボックスを見ると、影の薄いおじいさんがいた。おじいさんは渋い声でつぶやいた。

「ワシは、殴ったところ見とらんぞ」

「見とらん、じゃなくて見えてない、だろ」

 小太りがそう茶化す。

「殴ってないぞ。真紀に殴られたことがあるオレだからいうけど、真紀に殴られたら、顔パンパンに腫れるよ」(第2幕『殴る女』参照)

 Tさんは、歌っている『小指の思い出』が間奏に入ったところでそう証言した。今、店が修羅場なんだから歌やめればいいのに、Tさんはマイクを放さない。

「あなた、さっきトイレのドアに顔ぶつけてましたよ」

 Nさんも涼しい顔で断言した。大人ってイヤだね。平気と嘘をつく。信じられない。

「オレが見たのは、メガネのあんたが美子の胸をいやらしく触ってたのと、ハゲのあんたが寿子の尻をヨダレ垂らしながら揉んでたのと、小太りのオトーさんが、真紀の胸触ろうかどうか迷ってたところ。触るならちゃんと触ってやれよ。顔がついてるほうが前だから」

 ハハハ、オレも口から出まかせ、並べてやった。なんたって、オレは菜々子といいところを邪魔されたわけだし、なけなしの4500円出したんだから。なんだか今ごろになって腹が立ってきた。いい年のオレが、一銭も持ってないんだぞ。

 そのとき、ドアが荒々しく開いて、3人の巨漢が入ってきた。体重が合計300キロ、かと見まがう風貌、そしてなにより3人とも顔がデカい。

 ツインズ名物・塗り壁トリオの登場だ(第6幕『ミッションインポッシブル』参照)。

「姐さん、出入りらしいですね。助っ人に来ました。姐さんに預けた命です。好きに使ってやっておくんなさい」

 Kさんは真紀のことを姐さんと呼ぶ。

「ムショ帰りのオレが話つけてやる」

 最近、タクシー運転手とけんかをして、手錠を掛けられ、留置所に一晩泊まったSさんが、デカい顔で熱くなっている。

 レオナルド・ダヴィンチが『最後の晩餐』で使った遠近構図をぶちこわす顔のデカさ。オレは、この店でSさんに会うたびに、目がおかしくなったんではないかと心配になる。Sさんの顔が、飛び出す絵本のように、あるいは3D映画のように、迫ってくるのだ。

「何か知らないけど、けんかはやめて。みんな幸せになろうよ」

 39歳にして結婚が決まったTクンがニコニコしながら、殺気立った雰囲気を和らげる。ハゲ、デブの2人は、かなりビビって、もう一刻も早くこの店を脱出したいと思っているのが見て取れる。ただカマキリだけは逆上しはじめた。

「やっぱりそうだよ。ここはボッタクリ暴力バーだ。こうやっていつもやくざを使って、客から金むしり取ってるんだろ! 訴えてやる。弁護士呼ぶぞ」

 今、弁護士呼んでもだめでしょ。ひとまず警察呼んでからじゃないと。

「検事ではだめですか? ボク、ケンジです」

 いつのまにか来店していた常連の森ケンジが自己紹介する。こんな場面でギャグかましてどうするよ。誰も笑わない、はずがNさんだけ受けている。あんた、笑いのレべル、低すぎ。

 そのときだ、奥に座っていたおじいさんが、ヨッコラショと席を立つとヨロヨロゆれながらくだんの客のボックスに、これまたヨッコラショといいながら座った。

「死にかけのじいさんは、ひっこんでろよ。ボケじいさんと話なんかないんだよ」

「だまらっしゃい! 若造」

 店の壁にひびが入りそうな通る声でじいさんは一喝した。カマキリがビクッとし、直立不動になる。じいさんは今度はニコニコとエビス様のような笑顔でこういった。

「子供怒るな、来た道だもの。年寄り笑うな、行く道だもの、という言葉もある」

 じいさんは、真紀に向かって静かにいった。

「おまえさんらとは10年以上の付き合いになるかな。真紀と理絵は、西口の座って2万円、3万円という高級クラブにいてな、店は違っていたけどそれぞれがトップホステスだった。その2人が店をはじめるというからどんなに高級店になるかなと楽しみにしていたら、来てみてビックリ、こんな低料金の店だ」

 じいさんは、ここまで話すと呼吸を整えた。なんか今にも死にそうな息づかいだ。

「わしは、もっと高い店にしろとくどいほど諭したんだが、こいつらは『サラリーマンが月に一度でも気楽に1人で遊びに来て、くつろげる店にする』といって頑として、わしのいうことを聞かなかった。あんたらがいうように、こんなチンケな店、わしゃ今でも反対だ。第一、儲からない。チンケな店だから、あんたらみたいなチンケな客が集まる。

 わしはな、いわせてもらっちゃなんだけど、金持ちだ。どうせあの世に金なんか持っていけない。高級店で静かに飲めるならワンサカ金使ってやるつもりだった。でもこいつらはチンケな店をはじめた。だからな、わしの目の黒いうちは、こいつら意地でも高い料金、取らない。というより取れないんだな」

 じいさんは、ここまでいうと寿子が飲み残したドンペリを飲み干し、そのうえ美子が残したワインも飲み大きなゲップをした。

「あんたらの不幸はドンペリを注文したことだな。で、ついてないのはいつもは店にないドンペリが今夜に限り、店に1本だけあったということだ。だけどな、あんたは『ドンペリ』と注文した。ボッタクるつもりなら、ドンペリのピンクが出てくるよ。ピンクなら10万はくだらない。不幸中の幸いだと思うべきだな」

 オレは、直感した。あのじいさん、タダ者じゃないね。眼光の鋭さといい、声のハリといい、大物政治家か、ヤクザの親分、といったところかな。

「あんたらをな、わしが許せんのはな、水商売の女を見下してるところだ。確かに、男を金ヅルとしか見てなくて、ほかの商売に比べて稼ぎがよくて、こんな楽な商売はないと思っているオミズは山ほどいる。プライドもプロ意識もまったくない女がな。

 わしも、そんなホステスはヘドがでるほど大嫌いだ。だから、そういう店には行かないし、そういうホステスにもほれない。

 でも、その点、真紀と理絵はな、数少ないプロだぜ。あんたたちが何の仕事してるか知らないけど、自信を持ってした仕事の代金、払わないといわれたらどうかな。仕事ぶりにケチつけるのはいいけど、正規の勘定払わないのは、酔っぱらいでもルール違反だな」

 カマキリが入口のほうを見て、そわそわしはじめた。なんか蒸し暑いなと思って振り返ると、入口のドアのところにいつのまにか常連がうじゃうじゃ、10人近くも集まっていた。

 常連たちは何もいわなかった。なぜ何もいわないのか。ここで口を挟むと、あとで真紀と理絵に叱られることを知っているからだ。ただ口で叱られるのなら屁でもないが、ビールやワインをペナルティとしてごちそうさせられる。

 でも全部で20人近くの常連に無言のプレッシャーをかけられては、カマキリたちも引き下がるしかない。

「今夜のところはこれで支払いしてくれ」

 カマキリは理絵にカードを渡す。理絵が珍しく素早く会計を済ませ戻ってくる。

「サイン、お願いします」

 横から覗き込んでいる理絵が、

「お客さん、ふざけちゃイヤですよ。これ、長島茂雄さんのサインじゃないですか。まじめにお願いします」

 アニメ声でスゴんだ。入口の常連客が、全員怖い顔をする。カマキリは急いでサインをし直すと、残りの2人をせかして入口に向かう。

 常連客が入口をあける。走るように立ち去っていく後ろ姿に真紀が、

「ありがとうございます。またのご来店を」

 理絵が大声で続ける。

「お待ちしてませんから!」

 真紀と理絵は、じいさんに深々と頭を下げる。

「いろいろありがとうございます」

「わしゃ、何もしとらんよ。カウンターのNさんとTさんが一生懸命、メール打ってた。これだけの常連が心配して駆けつけた。たいしたもんだ」

「真紀と理絵の人徳ですよ。彼女たちのピンチだからこんなに人が集まりました」

 Nさんが心にもないことをいう。だから大人はいやだ。

 それにしても、ほんと、この店の客は、ヒマ人が多い。これだけの人が、こんな時間まで池袋周辺にいたことじたいがびっくりだ。

「まだまだ未熟ものですから、ご指導ください」

 双子は柄にもなく殊勝だ。

「いやいや、わしの負けじゃ。こんなに多くの常連が心配して、駆けつけてくれる。4年半でちゃんと答えを出したじゃないか。いい店にしたよ。老兵は立ち去るのみだ」

 双子は来てくれた客を振り分けてボックスに案内している。今夜はまだまだ稼ぐつもりらしい。オレはこのどさくさに紛れて、勘定を払わずに逃げようと考えている。

 酔いも覚めてきたし、走っても大丈夫だ。よし、逃げるか。そう思った瞬間、後ろからだれかが肩をたたく。振り返るとワオッ、理絵がいる。さっき出した4500円を目の前に出し、オレが返してもらおうと手を出すと、すぐに引っ込めた。

「今夜は4500円で結構ですから、ゆっくり飲みましょう」

 さすが、会計ババアだ。料金先払いかい。帰りのタクシー代がないんだっちゅうの。
 真紀と理絵が、集まった客にお礼をいっている。

「ありがとうございます。今日ほどお店やっていてよかったと思ったことないわ」

 常連たちは、なぜかバツが悪そうだ。ふだん、双子にお礼なんかいわれたことがないという理由だけではなさそうだ。

「本当に、大変でしたよ。もうどうなるかと思った」

 と理絵。異議あり! おまえ、ずっと寝てたじゃん。

「真紀と理絵、2人とも感激してますよ。みんなが来てくれたのが、みんなが心配してくれたのが、よっぽどうれしかったんですね」

 オレはTさんにそう話しかける。Tさんは、カラオケの選曲の手を休めることなく、だまって常連客に送った送信済みのメールを見せてくれる。

「(件名)前代未聞、痛快無比、空前絶後
 (本文)真紀と理絵の本気の涙が見られる。嘘泣きでも、目薬でもない涙は今夜だけ。もう一生、二度と見られないかもしれない。このチャンスを逃がすな! 絶対おもしろい。保証します。大至急、ツインズに集合」

 そのとき、うしろから嫌な視線を感じた。振り向くと、真紀だ。真紀はケータイを取り上げて、メールをじっくりと読む。みるみる顔色が変わる。右の眉毛が2ミリ上がり、ピクピクする。

「Tさん! あんたって人は! 昔から本当に!!!」

 怒った。あまりの剣幕に、Tさんは、あわててカラオケのリモコンを放り投げると、椅子から立ち上がりトイレのドアまで逃げた。マイクだけは放さない。

「早まるな、まままま真紀。シャ、シャ、シャレだ。そんな怒るとしわが増える」

 Tさんはそういいわけをしながら、出口のほうへスウェーする。それでも真紀が追いかける。Tさんは、また殴られると思ったのか、顔を防御する。真紀が迫る。Tさんの腫れ上がった顔を想像したそのときだ。

 真紀はTさんに抱きついた。そして人目もはばからず、ウォンウォン泣きはじめた。

「ありがとうね。ありがとね。怖かった。あなたやNさんがいたから、どれだけ心強かったか。ビエーン」

 オレは? オレの名前は? 抱きつかれて途方に暮れたTさんは、ずっと放さなかったマイクでさっき入れた曲を歌いはじめる。

「♪♪わたし、バカよね~おバカさんよね~」

 真紀が涙と鼻水をTさんの背広に押しつけているのを見ながら、オレは、帰ることにした。なんだか疲れた。

 それより、どうやって帰るか、だ。カードも忘れてきたみたいだ。昨日から吹きはじめた木枯らしが、今夜もきっと吹いているだろう。

 店内はなんだか熱い。人いきれで店の温度が上がっているだけではなく、今夜集まった常連が熱いんだと思った。あんたら、もうみんないいトシなんだから、ガキみたいに熱くなるの、やめなよ。分別盛りの大人でしょ。

 店を出ると、後ろから理絵が追いかけてきて、黙って5千円札を出す。
「タクシー代、ないんでしょ」

「なんで、わかった?」

「ずっとひとりごと、いってましたよ。『金がない』『どうやって帰ろう』『真紀と理絵はペチャパイ』『Tさん、歌いすぎ』って」

「酔うと、オレ、ひとりごと、いってるのか、気をつけなきゃ」

「今度、お礼しますから、近いうちに来てくださいね」

 今夜の事件解決にオレも少しは貢献したんだな。感謝されるのは悪い気分ではない。でもヤニさがるのはキャラじゃない。

「こんな店、もう来ねえよ」

「無理しちゃって」

「全然、意味、わかんない。無理してないし」

「さっき聞いちゃったんです、ひとりごと。『いい店じゃん。また来てやるか』って」

「そんな、いっちゃったか。でも、この金返しに来なくちゃしょうがないしな」

「うれしい」

 理絵が満面の笑みを浮かべている。なんだか可愛いぞ。

「あの、いいにくいんですけど、次回は、ボトル、空いちゃうと思うので、覚悟してきてくださいね」

 ホント、可愛くねえ。やっぱり会計ババアだ。

 ビルの外に出ると、案の定、木枯らしが吹いている。冷たい木枯らしがほてったカラダに気持ちいい。

 今日は、時間的にはもう明日だけど、いい日だったかもしれない。

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