第九幕 雪
こんな日はまず客は来ない。勘ではなく、これまでの経験上そうなのだ。
それでも来る客がいるかもしれない。別に待っているわけではないけれど、こんな日に来てくれる客を私は大切にしたいと思う。そう思ってこれまで商売をしてきた。
昼過ぎから降りはじめた雨は、夕方には雪に変わった。雪に負けまいと頑張っていたアスファルトも、雪の強烈な冷たさに負け、少しずつ白くなりはじめる。
雪でなくとも今日は月曜日。多くの会社員たちはこのあとの4日間に備え、家路を急ぐ。つまり二重のハンデの中で商売をする。いってみれば本日は負け日である。
7席あるカウンターに、私と妹と、いつもは3人いる女の子の1人優美子ちゃんが座り、ビールを飲んでいた。
「もう閉めようか?」
妹がつぶやく。
「そうだね」
私は答えるが、妹は閉めるつもりはない。一卵生双生児だからわかる。私と同じ気持ちなのだ。
「優美子ちゃんはもう帰っていいよ」
「そうさせてもらいます」
彼女はそそくさと帰り支度をはじめた。
開店からもうすぐ4年、私も妹も39歳になった。
「この商売っていろいろな人と出会えるからいいよね」
っていわれることがある。本当にいろいろな男性と会ってきた。でもはたして多くの人に出会えることが幸せなのだろうか。いろいろな人に会わなくても幸せな人は、山ほどいる。
優美子ちゃんが帰ってしばらくして、店の扉が開いた。
見たことがある顔だけど、思い出せない。こういう商売は、一度しか来なかったお客様でも名前を瞬時に思い出せないといけない。でも私も妹もそれが苦手である。
「島さ~ん」
妹がすぐに声をかける。エッ、島さん? 私の記憶にある島さんとはずいぶん違う。白髪も増えたし、老け込んだ気がするし、すごく疲れた顔をしている。
島さんは2年ほど前まで一生懸命通ってくれた客だが、あるときパタッと来なくなった。おそらく妹に惚れ込んで通ってくれてたんだろうが、妹がいい返事をしなかったのだろう。私たち双子は、仲はいいのだけれど、立ち入った話はお互いあまりしない。する必要がないといったほうがいいかもしれない。
「いらっしゃい」
私はいつもの通りだが、妹がどんな対応をするか気になった。
「ずっと、待ってたよ~」
って完璧な営業トークだ。しかも満面の笑みである。
「わーい、島さんが来てくれた! うれしいな」
ヘンにテンションが高い。島さんは照れ臭そうに手を挙げ、カウンターに座った。私はおしぼりを渡し、
「雪、降ってます?」
「吹雪いてるよ」
「積もりますね。……島さん、何を飲みますか?」
と聞いたそのとき、妹がカウンターにボトルを置いた。底に1センチほど残っているジャックダニエルだ。『島』というボトルネックがかかっている。
私には私の客がいて、妹には妹の客がいる。それぞれのボトルはそれぞれが管理することにしている。
それにしても意外だった。2年も来なかった客の、それもほとんど入っていないボトルを、クールな妹が置いておくなんて。
島さんは懐かしそうにボトルを眺めている。
「水割りでいいよね」
「めっきり酒が弱くなってさ。薄いのにしてよ」
妹はそんな島さんの言葉を無視して、残っているバーボンをすべてグラスに入れ、申し訳程度に水をそそいだ。島さんは苦笑いしている。
「薄い水割りなんか島さんには似合わないよ。特にこの店ではさ、島さんはいつも元気な島さんでいてくれなくっちゃ」
妹はそういいながら、島さんの目の前にグラスを置いた。
ボトルが空いてしまった。新しいボトルを入れるだろうか。ちょっと寄っただけなら、この1杯を飲んで帰る。そしてまたしばらくは来ないだろう。昔なら無理やりボトルを入れさせようとした。でも今は違う。この場は妹に任せよう。
ちらっと妹を見たけれど、ボトルをすすめる気配はない。島さんはグビッと水割りを飲み、
「ヘンな味がする。ヘンな味がするけど、飲みやすい。バーボンにまでやさしくされるようではオレもだめだね」
自信満々で強気だった島さんの面影はない。仕事がうまくいってないんだろうか。
そうだ、あれは島さんがいったんだ。当時なかなか売上が上がらなくてイライラしている時期だった。
島さんはいつもカウンターに座り、冷静に私たちを見ていてくれた。
「仕事ってなんでも大変だと思うけどさ、眉間にシワ寄せてどうするよ。ニューボトルが入ったらさ、カーテンの裏でさ、ヨッシャって叫んでガッツポーズでもしてごらん。真紀と理絵でさ、ハイタッチなんかしてさ」
バカバカしいけど、やってみたら結構ハマった。島さんはこうもいってくれた。
「あなたたちの商売はサービス業。客を喜ばすという意味ではさ、エンタティナーでしょ。あなたたちが楽しくなけりゃ、客も楽しくないよ。仕事も楽しんでやらなきゃ」
何だかあの一生懸命の頃が懐かしくなってきた。あの頃によく来てくださったお客さんの顔が1人1人浮かんでくる。亡くなった人、不景気の影響で来なくなった人、社長になった人、転勤していった人、この店より自分にあった店に移っていった人……新しいお客さんが増えると、その分、前のお客さんが減る。狭い店だから、増えてばかりでも困るし、減ってばかりでも困る。ちょうど上手くいっているのかもしれない。
それにしても彼らはこの店に何を求めに来たのだろうか。私たちは彼らに何かをあげられただろうか。
島さんが、グラスの酒を飲み干して妹に声をかけた。
「同じボトル入れてよ」
思い出に浸っていた私は、その瞬間、2年前にタイムスリップした。
「ヨッシャ!」
思わず叫んでいた。おまけに手のひらを握って……。ガッツポーズまでつけている。
しまった。まずい! 照れ臭くてペロッと舌を出した。
「ハハハハハハ」
ここは笑うしかない。妹は手をたたいて笑っている。
こわごわ島さんを見た。島さんも口を開けて大笑いをしている。よかった。笑ってくれている。
島さんは笑いながら天を仰ぎ、しばらくして笑い声が消えた。
妹と目があった。妹が何か合図を送っている。
島さんが泣いている。人前では絶対泣いたことがないような島さんの目から大粒の涙がこぼれている。
「ヨッシャ」がショックだったのだろうか。もちろんお客さんに失礼なことは知っている。でも島さんが教えてくれたことじゃないの。あの頃は、私も妹も、島さんの言いつけ通り、いつもカーテンの陰でしかやってないんだよ。お客さんには見せたことがないんだよ。うそじゃないよ。
しばらくして妹がそっと島さんにおしぼりを渡した。島さんはそのおしぼりを奪うように手に取り、何度も顔を拭った。
「この店はあったかいよ」
島さんはポツリとそういうと、いつのまにか妹が作った濃い水割りを、いっきに飲み干した。ちっともカッコよくない客に「すてき!」っていくらでもいえるけど、こんな場面で声をかけられるほど私も妹もすれていない。
その日、島さんはかなり酔っぱらって店を出ていった。
私は島さんの涙の意味を知らない。でも島さんの涙が、私たちへの怒りや悲しみでないことだけは理解できる。
ただ私はこの店をやっていてよかったと思った。いろいろな人に出会えることは、まんざら捨てたもんじゃないと、つくづく思った。
雪は、ホワイトエンゼルを連れて落ちてくるって聞いたことがある。本当だった。
これが2月下旬に大雪が降った日のツインズのすべてである。
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