第七幕 パンドラの箱
全知全能の神ゼウスは、一塊の粘土から最初の人間の女性を作った。ゼウスは彼女に生命を与え、「すべての神の贈り物」という意味でパンドラと名づけたんだ。
女神アテナはパンドラを美しく着飾り、美の女神アフロディーテは優美さを、アポロンは美しい歌声を……パンドラが地上に降りるあいだに、神々は数々のプレゼントを贈ったから、地上についたとき、パンドラはすっごくいい女……でもちょっとタカビーな女が出来上がっていた。
しかもパンドラは、最後にヘルメスからとんでもない贈り物をされる。それは嘘と好奇心と虚栄心。こういう女にオレも何度もだまされたことがある。
さらにゼウスからは絶対に開けてはならないという封印された箱(箱というより甕)をもらうんだな。
パンドラはやがて1人の地上の神と結婚をすることになる。それはとても幸せな結婚だったんだけど、ただただ毎日が退屈でしようがない。
ま、幸せってもんはそういうもので、幸せな人間は自分が幸せであることに気づかない。オレも? かもね。結構これで幸せなのかもしれない。
そんなある日、パンドラは好奇心からゼウスにもらった箱をどうしても開けたくなってしまう。夫に嘘をついてまで箱を開けちゃうんだ。箱を開けた途端、中に入っていたものは、パッと広がりあっというまに地上のあらゆる場所に飛んでいってしまう。
箱に入っていたのは、何だと思う? 妬み、憎しみ、悲しみ、悪意、欲望、病気、貧困、絶望、暴力……あらゆる不幸の種だった。
「取り返しのつかないことをしてしまった……なんてことをしてしまったんだろう……」
パンドラは己が犯した罪の大きさにおびえ、ただただ泣き続ける。
● ● ● ● ● ●
「最初に来たときはてっきりそのスジの人だと思いましたよ。だいたい、顔が怖いじゃないですか。そのうえすっごく横柄な態度で感じ悪かったです。もう二度と来ないでって。そういう客ほど、また店に来るんですよ。二度目はグテングテンに酔っぱらってきて、1人でボックスに座って、私がついたら露骨に嫌な顔して、『ママ、呼べ!』って、本気でムッとしましたね。それからしばらくの間はいつも心の中で『早く帰れ!』って思ってました」
「幸子、なにも、そんなに悪くいうことないじゃん」
「だって……悪いこと思い出さないと……」
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「ボクがこのあいだ、来たときのこと、覚えてます?」
「エンちゃんがいらっしゃったのは2週間前くらいだったかしら」
カウンターの中で理絵が水割りを作りながら答えた。エンちゃんと呼ばれたのは年齢が30すぎの遠藤というサラリーマン。
「そこの隅に沢田さんっておじさんが座ってたじゃないですか」
「そういえばエンちゃんと何かまじめな話、してたわね」
「今夜みえるかな?」
「なんで?」
「お礼がいいたかったんですよ」
真紀と理絵が顔を見合わて、困ったような顔をする。
「あの日、ボク、メッチャ、ヘコんでたんですよ。人生でベスト10に入りそうな落ち込みようで、もうギリギリ状態。いくら飲んでも酔っぱらわないし、むしゃくしゃするし、イライラするし、ムカつくし」
「あの日、エンちゃん、かなり飲んでたわね。新しいボトル入れたのに、ほとんど残ってなかったものね」
「そしたらおじさん……沢田さんがさ、ボソッと、
『オニィチャン、とりあえず、笑っとけ!』
って声かけてくれたんです。普通だったら、
『うるせえな、ほっとけ!』
って切れちゃうところだったんだけど、沢田さんの笑顔が口ではいえないくらいやさしくてね。で、いろいろ愚痴聞いてもらったり、話したりしてるうちにさ、何かボクの悩みなんか大したことないじゃんって。そのあとボク、記憶切れちゃうんだけどね、次の日の朝は、全然すっきりしてたんすよ。あれ~? 何悩んでたんだっけ? って感じ。あの日、ボク、沢田さんに失礼なことをしたり、いったりしてませんよね?」
「失礼なことはしてないと思うわ」
「じゃあ、お礼だけはどうしてもいいたい。だいたい何曜日にいらっしゃることが多いんですか?」
理絵は、何ともいえない微妙な顔をする。
「あんなオヤジにお礼なんかいわなくていい!」
吐き捨てるように会話に入ってきたのは常連の板さんだった。いつもはニコニコしながらお酒を飲んでいるのに、今夜の板さんは機嫌がよくない。目も座っている。
「どうしてですか?」
エンちゃんはちょっとムッとした。
「必要がないんだ!」
「なんで必要がないんですか?」
エンちゃんは少し気色ばむ。
「だって、あれ、沢田のオヤジの趣味だから。道楽といってもいいけどね」
「どういう意味っすか?」
エンちゃんは、ほぼ切れかかった。板さんは挑発するように説明する。
「その日、オレいなかったから、想像でしゃべるけどさ、あんたに思い切り愚痴をいわせた。そのあいだ、オヤジは何もしゃべらず、相づちだけをうちながらただただ話を聞いていた」
「いっぱい愚痴りました」
「オヤジが刑事だったら、ほとんどの犯人が自白するってくらい、オヤジは人の話を聞き出すのが上手い」
「そういえば初対面の人に話せないようなことも、話していたような気がする……」
「それだけじゃないよ。これも想像だけどさ、あんたがさあ、トイレに入ってるあいだにさ」
いつも常連と話しているときは丁寧語を使っているのに、エンちゃんには強気なのは、エンちゃんが年下だというばかりではなさそうだ。今夜の板さんは、いつもの彼ではない。ふだんは知らない人に「あんた」などと呼びかけない。
「おそらく若い女の子では落ち込んでいるヤツをフォローできないから、理絵か真紀をカウンターに呼んでさ、『ちょっと元気にしてやってよ』って頼んだ。そのうえ声を張り上げて歌を歌う客には、『わけありの客がいるんで今夜はなるべく静かな歌を歌っていただけませんか』とか頭を下げて回ったんだよ、沢田のオヤジは、きっと」
「ウッソー、そんなに気を使ってもらったんですか?」
エンちゃんが聞くと、理絵が首を縦に振った。
「だから、気を使ったわけでなく、それがオヤジの趣味なの」
「じゃあ、沢田さんは偽善者なんですか?」
「オヤジがいい人だと思ったわけだ。そりゃ傑作だ。ハハハハハ」
板さんが、おかしくないのに、笑う。
「偽善者ってのはいい人のふりをすることでしょ。あのオヤジはいい人じゃないし、いい人になろうなんて思ってない。ただただ困っているヤツを見ると元気づけるのが好きなだけ。それも違うな。元気になったヤツの顔を見るのが好きなんだな。それがオヤジの趣味。ただそれだけ」
「だったら、お礼くらい、いったっていいじゃないですか。オレは確かに落ち込んでいたんだし、沢田さんのおかげで元気になったんだし」
エンちゃんの反論を無視して、板さんが話を続ける。
「ひとしきり話をしたあと、オヤジ、どうせ中島みゆきの『時代』なんか歌ったんじゃないの」
「うまくないけど心に染みるような声でした」
「それに中島みゆきの『ファイト』。闘うキミの歌を、闘わないヤツらが笑うだろって歌を、リズム無視して歌うんだ」
エンちゃんがその先を続けて口づさむ。
「♪勝つか負けるかそれはわからない。それでもともかく闘いの出場通知を抱きしめてあいつは海になりました」
「ハハハハ、それがオヤジの手なの! 沢田マジックに完全にひっかかってるわ、このオニイちゃん。オヤジも人が悪いよね」
エンちゃんは、堪忍袋の緒が切れた。席を蹴飛ばすように立ち上がり、板さんの胸ぐらをつかんだ。
「そ、そ、そ、そんな言い方、ないじゃないですか!」
今にも板さんに殴りかかろうとしたとき、ボックス席から幸子が飛んできて、いきなりエンちゃんに食ってかかった。
「遠藤さん! やめてください!」
「だってこの人、沢田さんの悪口ばかりいって。あんまりじゃないか!」
エンちゃんはつかんでいた板さんの胸ぐらから、手を離した。ふだんは自分にやさしい幸子の怒り方が尋常ではなかったからだ。
「沢田さんはいつも私の顔を見るたびに説教ですよ。店に来るたび毎回。いいかげんやめてほしいですよ。酒弱いくせに毎日飲み続けて、おまけにたばこもスパスパやって、私が酒とたばこ、減らしてくださいよっていっても、全然聞かないし、今度、寿司屋へ連れていってくれるっていいながら、約束守ってくれなかったし……トロとウニ、飽きるほど食わしてやるって……そういったんですよ!」
早口でそれだけまくし立てると、幸子はトイレに駆け込んだ。
エンちゃんは何が何だか分からないという顔をしている。どっかで犬の遠吠えのような、哀しげな声が聞こえた。
「沢田さんて、そんなに悪い人だったんですか。幸ちゃんまでがあんな言い方するなんて。ガッカリだな。ボク、幸ちゃんのこと、好きだったのに……。ただありがとうございました、っていいたいだけなのに」
「だからお礼なんかいう必要はないの」
板さんは、同じことをくり返す。エンちゃんがまた切れかかったので、理絵が冷たいオシボリを渡した。
幸子はトイレから出てくると、また沢田さんの悪口をいいはじめる。
「沢田さん、トイレから出てくるとチャック開けっ放しのことが何度もあるんですよ。髪の毛なんかボサボサだし、何日も同じシャツ着てるし、不潔ですよ。それでいて神経質で、寂しがり屋のくせに強がるし……」
板さんが幸子の肩をやさしくたたく。それでも幸子は続ける。
「沢田さんのいやなところ、文句いいたいこと、いくらでもいえますよ、私……。オヤジ・ギャグばっかで、これがまたツマンないし、笑えないっちゅうの! だいたい自分のお金で飲みに来てるんだから、人に気を使うことなんかないんですよ。私が便秘だっていったら、毒だみ茶かなんか山ほど買ってきて、飲め飲めってうるさいし……。ウザイってヤツですよ」
「もういいから。もうわかったから」
板さんが強い口調でいう。理絵がビールを出してきて、エンちゃんと板さんについでやる。2人が冷たいビールを飲み干す。エンちゃんはまだ納得してない。まだ幸子が文句をいう。
「私なんか赤の他人なんだから、あんなに心配することないじゃないですか。遠藤さんのことだって、ほっときゃいいんですよ。他人のことばかり気にしてるから……」
「幸子! もうやめろ!」
今度は、板さんが怒鳴った。理絵がグラスにビールを入れて、イッキに飲み干し、エンちゃんに語りかける。
「正確にはね、お礼をいわなくていい、じゃないの」
エンちゃんが首をかしげる。
「もう、お礼をいえないのよ」
エンちゃんは怪訝な顔をした。
「亡くなったの……沢田さん、一昨日に死んじゃったんだ」
空気が凍りつくというのはこんな感じかもしれない。茫然自失のエンちゃんはなんのリアクションもできずに、ただただ目を丸くしている。理絵が続ける。
「さっきまでみんなで沢田さんのこと偲んでたのよ。ツインズ、お通夜みたいでした。あのときはああした、こうしたって思い出話をしてたらね、幸子は泣き出すし、板ちゃんは落ち込むし、私だって……」
理絵が下を向いて口ごもる。おそらく涙をこらえてるんだろう。板さんが助け船を出す。
「沢田のオヤジがさ、いってたことがあるんだ。『ホントに悲しいときは涙はきっと出ないと思う』って。オヤジのために、オレ、今夜は泣かないって決めたんだ。そしたら急に幸子が沢田さんの悪口いいはじめた。なんで沢田さんのこと悪くいうんだって聞くと、
『だって……悪いこと思い出さないと、いいことばかり思い出すし……そしたら仕事にならないし。沢田さんと話して楽しかったこと、うれしかったこと、沢田さんのおかげで助けられたことは山ほどあるけど、それ思い出したら涙が止まらなくなっちゃうから、沢田さんのイヤなところ、嫌いなところ、不愉快なところを思い出してるんです』っていうわけよ」
幸子はそれまでこらえていた涙を、もう一度我慢しようとし唾を飲み込むのだが、それでも我慢し切れず嗚咽する。犬の遠吠えみたいに聞こえたのは、幸子がトイレで泣いていたのだ。
「でも沢田さんの悪いところ、嫌なところ……全部、私、嫌いじゃない……」
幸子はそういうと今度は大声で、幼な子のように泣きじゃくる。
「幸ちゃん、泣いちゃだめ! ずるいよ。自分ばっかり。さっき決めたじゃない」
理絵が幸子を諭すようにそういうと、さびしそうにエンちゃんに語りかける。
「今夜はもう沢田さんの話、やめようって決めたところだったの」
「そこへボクが入ってきた。そして沢田さんの話題にふれたわけですか?」
フーッてエンちゃんがため息をついた。
「ゴメンネ、エンちゃんは悪くないのよ」
理絵がエンちゃんにビールをついでやる。
「エンちゃんがここへ来る前に寄ってきたお店ね」
「うなぎの心臓を生で食わしてくれるところ?」
「その店、沢田さん、大好きだったのよ。私も真紀ちゃんも連れていったもらったことあるし」
「沢田さんも、好きだったんだぁ」
「だから……今夜は沢田さんがエンちゃんを、この店に呼んだような気が、私はするんだけど……」
「遠藤君っていったっけ。オヤジの人生貸し借りちゃら理論って聞いたことある?」
エンちゃんが「いいえ」と首を横に振る。
「人間はいつも誰かに借りを作りながら生きてる。だからその借りを返してちゃらにしなきゃ死んじゃいけない。オレなんかオヤジにいっぱい借り作ったままなんだよ。もう返せない。でも借りを返すのは、借りをつくった人でなくていいってオヤジはいう。オヤジは今まで作った借りを遠藤君に返してたんだよ。遠藤君がオヤジに借りがあると思ったら、他の人にその分、貸しをつくりな。誰かが落ち込んでたら、遠藤君がそいつにやさしくしてやんなってことだよ。だから沢田のオヤジに礼なんかいわなくていいんだよ。それがオヤジの持論、そして遺言……かな」
「そうだったんですか」
エンちゃんはすごく悲しそうな顔をした。
「パンドラの箱の話、しなかった?」
「しました」
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箱の横で座り込み、何日も何日も泣き続けたパンドラは、ある日、もう一度、空っぽになった箱の中をのぞき込む。すると箱の底になんかチリのような小さなものがくっついてる。たくさんの厄災に押しつぶされてペチャンコになってたんだ。
パンドラは、それを手のひらにそっと乗せてみる。そいつはね、多くの不幸の種に押しつぶされながらも、じっと我慢して生きながらえていたんだ。
そしてその小さな鼻くそみたいなのがね、パンドラの手のひらから、空に向かって光りながら飛んでいくんだ。飛んでいきながら、それはいくつにも分かれ、キラキラ光りながら、どんどん大きくなっていく。地上のあらゆるところへ、まるで厄災を追いかけるようにね。
ちょっと見は鼻くそだけど、実はそれが「希望」だったんだよ。
地上のあらゆるところに飛んでいったさまざまな厄災、すなわち妬み、憎しみ、悲しみ、悪意、欲望、病気、貧困、絶望、暴力は今日もオレたちを取り囲んでいる。だけど、同時に押しつぶされながらもよみがえった「希望」も同じように輝いている。
そういう話なんよ、パンドラの箱って……。
「……あの話、オヤジ、なんで好きだったのかなあ……」
「希望って、人のやさしさってことですよね」
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